カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス生活の日記だったけど、今は大阪にいます。

嗜好品のある暮らし

 今朝は自宅でコーヒーをいれてみた。

 スーパーで買った粉と水をマシンにセットしてボタンを押しただけだが、なかなかうまい。いつも二度寝の誘惑に負けまくりながらだらだら出勤準備をするのに、苦味と香りのおかげで雑念が払われるようで、素敵だ。

 考えてみると、自分でコーヒーをいれて飲むなんてことは、おそらく生まれて初めてだ。家族にいれてあげたり、家族が作ったのを少しもらうということは時々あったものの、私にとってコーヒーというのは、わざわざ自分で作るものではなかった。

 日本にいたときはお茶が好きで、緑茶や中国茶をとっかえひっかえ試すので忙しかったし、なんとなくお茶のほうが体にいいような固定観念があった。

 また、学生時代が貧乏で喫茶店と縁遠かったので、心理的距離も大きくなっていた。コーヒー代をケチる一方で、酒は馬鹿みたいに飲んでいたので支離滅裂だが、とにかく「コーヒーは余裕のある人がこだわって飲むもの」という偏見にとらわれていた。くだくだとウンチクを垂れる小洒落たコーヒー愛好家のことも、ケッと思っていた。問題は自分のコンプレックスと頭の固さなのだが、誠にひねくれたことである。(缶コーヒーは屈託なく好きだった)

 幸いそのうち給料をもらうようになり、カフェや喫茶店の面白さも少しずつ分かってきて、年相応にコーヒーへの親しみは回復した。しかし「なんとなくめんどくさい」という人類永遠の宿痾が、私を、自宅でコーヒーをたしなむことから遠ざけていた。

 実は駐在の前任者からコーヒーマシンは引き継いでいて、紙フィルターももらっていたので、いつでもコーヒーを楽しむ用意はできていた。それを半年戸棚にしまいっぱなしにしていたのは、ただただ「なんとなくめんどくさい」という理由に尽きる。

 あと、夜のカフェインを避けたい私には朝しかないのだが、私は朝はご飯党なのである。しかもかなりしっかりした量を食べる。豚汁と炒めものと納豆ときんぴら…とたらふく食べた後に、あんまりコーヒー飲もうという気にはならず、また今度でいいやと見送る日々であった。

 それがなんで今朝に限ってコーヒーいれてみよかなという気になったのかというと、たまたま前日の夜更かしをして、朝食を作る元気がなかったためだ。あと、やはりアメリカに来てからそこらじゅうでコーヒーをごちそうになったり、自分でカフェに入ることが多くなった。この環境変化も、潜在意識の変化に効いている。

 今日いれたコーヒーがうまかったからといって、引き続き私はものぐさだし朝は和食だ。これからもそんなに毎朝飲むようにはならないと思うが、でも、めんどくささの壁をひとつ超えた。えらい。