カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス駐在の日記です。2017年10月から

枕頭の書

 『宮沢賢治詩集』を最近またよく読み返している。かれこれ15年くらい身近に置いているが、ページを開くたびに鮮烈な字句が目に飛び込んでくる。詩の一編一編が強すぎて少しずつしか読めないのと、読んだ先から忘れてしまうからである。あるいは私が少しずつ年をとって、読むたびに違う自分になっているからである。

 この本を手に入れた高校生(中学生だったか)の頃には、初期の作品に見られる喪失、情愛、焦燥、それらを含んで暗く燃える青春の動揺に激しく同調した。「春と修羅」の「ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」に出てくる「おれ」は俺のことだ!俺は修羅だ!と布団の中でまんじりともせず何度も読み返した。できかけのぐちゃぐちゃの自我で頭がぐるぐる興奮している時期、この本は鎮静剤のような、命綱のような、「ライナスの毛布」だった。読んでいるうちに自分がばらばらに分解されて、きれいな結晶の形に並べ直されていくような感覚があった。

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 心の常備薬であったから、どこへ行くにも帯同した。初めて沖縄で貧乏旅行したときも、どでかいザックでヨーロッパ回ったときも、もしものときに備えて懐に入れていた。安ホステルの二段ベッド、ときには三段ベッドに横になって、何ページかめくる。そのうち頭が静かになって眠くなる、というのが旅のルーティンになった。

 大事な本なのでアメリカ行きの引越荷物にも一番に詰め込んで持ってきている。

 齢アラサーになった最近、また枕元に置いてちびちび読んでいるのだが、気づくのは賢治30代前半から晩年にかけての労働や農業をうたった詩篇にずいぶん共感できるようになったということである。渾身の肥料計画が予想を外してこれから農民に謝りに行かねば…とか、苦心のすえついに稲がきれいに実ったぜざまあみろ…とか、そういう、仕事上の挫折や喜びに根ざした作品には、高校の頃はあんまりピンとこなかった。いまは痛いほどわかる。仕事や人間関係でモヤモヤしたときも、熱いシャワーを浴びてから後期の作品群に目を落とすと、すっと夜露がおりるように考えの「腫れ」がひいてゆく。

 

 

 詩以外の童話等も含めるともう四半世紀くらいずっと宮沢賢治が好きだが、昔はあまりに自分の内面と同一化(というか依存)して鑑賞していたため、恥ずかしくて他人にもそんな話はしなかった。彼が死んだ歳に近くなったせいか、少し対等な距離を置いて語れるようになった気がして、ちょっと文章にしてみた。

 

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おわり。