カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス生活の日記だったけど、今は大阪にいます。

ときどき手紙を書きます

 ロサンゼルスに来てから、手紙を書くようになった。筆まめ、とは言えないがひと月に一度くらいはペンをとってみることにしている。しばしばもっと日にちが空いてしまうけど。東京で暮らしていたときはごちゃごちゃと気を引くあれこれが多く、そんな習慣はなかった。知り合いの全然いない土地に来て、時間と気持ちに隙間ができてから始めたことだ。

 なんでそんなことを始めたかというと、自分が手紙をもらったときの嬉しさを思い出したからだ。自分だけに宛てて言葉を送ってもらうというのは、内容にかかわらずとても気分が良い。手紙というのは通信手段としては言うまでもなく時代遅れのものだけど、それだけに相手が手間と時間をかけてくれたことは一瞬で伝わる。特にそれが海外からやってくるときは尚更だ。

 十代のある時期を最後に年賀状すら出さなくなったので、そんな私に誰かから手紙が来るはずもなかったが、それでもこれまでごく稀に、心のこもった手紙を書いてくれた酔狂な人がいた。自分は最近こんな感じだ、お前とはしばらく会っていないが達者なことと思う、また会う日までがんばれよ・・・そんな普通の文面が、人生の要所要所で私を支えてくれている。

 そういう感情を、今度は私が紙に字を書くだけでちょっとでも相手に渡すことができるなら、実にこんな手軽なこともあるまい。最初はアメリカでの郵便の出し方も知らなかったけれど、とにかく手元にあった絵葉書に肉親宛の近況を書きつけて、コリアタウンの郵便局に持っていった。移民の多いコリアタウンだけに、海外郵便を出す人は多いのかもしれない。窓口の係員は慣れた様子で「この宛名の書き方だと配達員が混乱するから」といって、大事な部分にマジックでアンダーラインを引いて強調してくれた。ついでに今後のため間違えられない宛名の書き方も教えてくれた。

 それからというもの、友人・家族と何度か手紙のやり取りをした。やり取りの回数はせいぜい両手で数えられるほどだが、この原始的な手段も捨てたものではないなと思っている。

 当たり前のこととして、手紙は「時間のかかる」ものであると同時に「時間をかける」ものでもある。まず葉書や便箋を買わなければいけない。巨大ネット企業が跋扈するアメリカでも、カードを贈り合う文化はまだまだ根強く、いろいろなところでレター関連商品を売っている。私は本屋が好きなので、文具コーナーでセンスの良いものを見るとつい買ってしまう。また、国立公園のビジターセンターなどにも結構いかしたポストカードが置いてあり、こういうのもちょこちょこ買ってしまう。結局出すより買うほうが多くて溜まってしまうのだが、本屋巡りやハイキングという自分のための趣味に、手紙を出す相手のことを考える時間が入り込んでくるのがなんだか心地よいと思っている。

 いざ書くとなっても、メールやテキストメッセージに比べて格段に時間がかかる。あらかじめ書くことを考えていたとしても、なんだかんだで三十分くらいは紙に向かっている。溜まったレターセット類からどれにしようか選んだり、筆が止まってソファに逃げたりしている時間を入れれば、結構な時間、一人の宛先のことを考えている。時間が際限なく細切れにされている現代、こんな時間の使い方はなかなかできないことだ。自分がその人にどんな言葉を発したいのか、発するべきなのか、じっと考えるとても貴重な機会になっている。逆に普段はそこまで考えず雑に言葉をやり取りしている、ということでもある。

 相手が多忙であろうが病で臥せっていようが、好きなタイミングで一方的に出しているので、いつも返事は期待していない。が、やはり返事が来るととても嬉しい。たまーーーに泣くこともある。

 手紙というのはどう考えても面倒くさい行為であり、長く続けるかどうかは分からない。住所を知らせあっている間柄も今や非常に少ない。けれども当面、少なくとも海外赴任している間だけは、ときどき思い出したようにやっていきたい。