カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス駐在の日記です。2017年10月から

アトピー随想

 アトピー暦30年超。きわめてうっとうしい病気だが、アトピーによって他の人よりよくわかるようになったことも多い。というか、皮膚を人間と外界を隔てる境界だと仮定すれば、私の生まれてから経験した世界というものはすべてアトピーのフィルターを通したものだったのだ。このかゆみがなくなったらどんなに楽かと虚空を呪ったこと、何億兆回かわからないが、もしもアトピーがなかったら今の私は私ではなかっただろう。

 人生の中でほんの数回だけ、かゆみがない時間というのがあった。ものすごく相性のいい温泉に入ったときとか、きついステロイドを大量に塗り始めたときとか、あるいは高熱で寝込んでかゆみどころではなくなったときとかだ。そんなとき、気分は不思議なほど爽快で、初めて眼鏡をかけたときのように、頭からノイズが消え、なんでもできるような感覚を味わうことができる。アトピーじゃない人はこんな素敵な世界に住んでいるのになんであんなに不満そうな顔をしているのだ?

 しかし一方で、私は漠然とした寄る辺なさを覚える。かゆくないときっていったい何をすればいいのか。常に意識の一部をかゆみのコントロールに割いていたのに、そのエネルギーをどこにやればいいのか。寄っかかっていた壁が急に消え失せたら、おっとっととたたらを踏んでしまう。かゆみを抑え込む以上に、人生の時間を費やす価値のある行為って、なんだっけ。

 心配しなくてもそんな時間は長くは続かず、アトピーは親切にもすぐにぶり返してきて、不安を塗りつぶしてくれる。かきむしったり薬を塗ったりの繰り返しの中で、またいつもの平穏な時間が過ぎていく。私は終わらないイライラの中で安定する。

 このように、人生で何度か訪れたかゆみの空白と、そこからの復帰の繰り返しの中で、私は私の一部が病であることを理解したのだった。アトピーは私の外部に解決されるべき問題としてあるのではなく、私自身がアトピーなのだ。ものの感じ方、考え方の根っこにつねに「いっつもかゆい」という感覚が存在していて、そこから離れることはできない。

 もちろん新薬の研究も日進月歩だし、これからの人生で完治することがあれば一人でパレードするくらいうれしいことだが、その治った私というのは今の私とはかなり違う人間になるのだと思う。どうせ時間がたてば人は変わるのだから取り立てて言うほどのこともないかもしれないけれど、この皮膚の不調は私の構成要素としてかなり基本的な位置を占めているので、やっぱり比較的に大ごとではあるだろう。

 いろいろな病を抱えた友達と話をしてみると、慢性疾患をもった人というのはおそらく多かれ少なかれ、こういう「病を取り込んで育っちゃった感覚」を共有しているのだと思う。損から始まった感覚であるので、持ってても普段はあんまりいいことはないんだけど、たまに、なんだか普通では考えられないような様子のおかしい人とかに出くわしたときに、ああこの人の不調はこういうメカニズムで表現されているのかな?みたいな推測が立つようになる効果はある。たまに、役に立つ。