カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス駐在の日記です。2017年10月から。

沢田研二のソフトパワーと現代アジア

 出張など続いてまたしばらく更新できず。

 今日ようやく出張が終わってロサンゼルス空港まで帰ってきた。家までライドシェアを拾ったら運転手は香港出身のおじさんだった。アメリカに来てもう25年も経つという。大先輩である。

 私が日本人とわかると「ハジメマシテ!サシミ大好き、日本人は規律正しくてすごい…」などとよくあるお褒めの言葉をくださる。話の腰を折りたくないのでとりあえずどうもありがとうとかいったことをむにゃむにゃ返すと「君は音楽はやる?」とちょっと変わったことを聞かれた。

 いや、やらないなあと流して広東語の挨拶など教えてもらっていると、またおじさんが「日本は音楽がいいよねえ!」という。音楽の話がしたいのか。「ケンジ・サワダが最高だよ!」と。

 おお!おじさん!その分野は俺は分からない!

 「タララーン、タララーン…これ日本語の曲名わからないけど英語にも北京語にも翻訳されてんだよ〜」「香港では日本の音楽とか食べ物とかめちゃくちゃ人気だよ〜」

 ほおほおと適当に相槌を打っていると「それに引き換え中国は嫌いだね」とおじさん。「香港人は中国に返還されるのは嫌だったんだよ」と。そうか、おじさんがアメリカに来たという25年前というのは返還前夜でいろんな不安が膨らんでいた時期だったんだな。一族郎党みんなでアメリカに渡ってきたというおじさんは「予想通り返還後は汚職がひどくなって香港の状況はとても悪い」という。私は不勉強で何もコメントできないけど、たしかに学生デモが盛んになっているのはニュースで見る。

 勉強になったなあと思いながら「ンゴイ・サーイ!」と教わったばかりの広東語のお礼とともに車を降りた。

 ライドシェアで白タクをやっている運転手には実にいろんな人がいて、雑談の苦手な私にもガンガン話しかけてくるので、ほんの短時間だけど面白い話を聞けることが多い。便利だ便利だと在外日本人の口から日本にも紹介されているが、実はこの白タク形式のサービスはほんの移行期のつなぎにすぎず、UberLyftといった元締め会社は人間のいらない自動運転時代の覇権を目指して動いているという話もある。こういうランダムに人と出会えるシステムとしてのライドシェアの寿命は意外に短いのかもしれない。

激辛の国アメリカ

 タイトルの通りアメリカちゅうところは激辛の国である。来るまでぜんぜんそんなイメージはなかったが、油断しているとヤられる。さっき人と飯食ってるときに何気なくタコスをパクついたら中に生のハバネロが入ってて死んだ。食い物に生のハバネロを入れるときにはメニューに明記してでっかいドクロマークでも付けておくのが人としての当然の流儀であるだろうなどと考えるのはまさに平和ボケの見本というもので、ふふ、ほんのスパイスですよ、めしあがれ、といった体で見えないようにハバネロを埋めておくのがこちらの流儀である。母国にいるときのようにのんきに構えていてはいけない。ここは外国だ。エビとアボカドをトウモロコシ粉の薄焼きで挟んだ素朴な食い物を食うときでも、ゆめ危機管理の気構えを忘れてはならぬ。

 アジアで激辛といえばまず韓国、そしてタイ、中国の四川といったあたりが思いつくが、そもそものところをよく考えれば唐辛子というものがそれら激辛王国に伝わった経路は、歴史上みな必ずアメリカの隣国メキシコにつながっている。隣国どころかロサンゼルスを含めたカリフォルニア南部はかつてメキシコ領土だったくらいであるから、世界の激辛文化の本家本元に非常に近しい位置にあるといえるわけである。

 ありがたいことに、国際都市ロサンゼルスでは手軽にいろんな国の料理が楽しめる。しかし、テーブル備え付けの香辛料を使うときには注意しなければならない。いかに料理が本場風でも、辛味ソースや唐辛子フレークだけはメキシコ基準というか世界基準でアップグレードされているおそれがあるからだ。七味や柚子胡椒みたいな感覚で料理にバサバサ入れるとえらい目に遭う。

 これは半分メキシコみたいなカリフォルニアやテキサスだけの話ではなく、ルイジアナなどの深南部というあたりでもまた別の激辛料理が発達しているし、それらが全米に拡散しているのでどこに行っても辛いものに出くわすリスク(チャンス?)はなくならない。タバスコもデスソースもアメリカ発祥であるし、そういうグローバルブランド以外にも地酒のごとく各地にローカルのホットソースメーカーがあり、スーパーの売り場にはホットソースだけでものすごい品揃えが見られる。

 もちろんここは多様性大国でもあるからして、なにもかも押しなべて一様に辛いということは全くないのだが、辛いものはもう頭の芯がビリビリ痺れるくらい辛い。そして「激辛料理」と銘打っていなくてもあまり警告なくいきなり辛い。

 さっきタコスに混じって食ってしまったハバネロはまず舌を焼き、次に脳味噌をギュッとしびれさせて(しばらくガンギマリの状態になった)、3時間経った今でもふつふつと胃の中で存在感を主張している。

 明日トイレ行くのが怖い。

週末の宮部みゆき

 宮部みゆき模倣犯』を読んでいたら週末が終わった。 ハードカバー上下巻1400ページほどを一気読みしてお腹いっぱいである。半年ほどの連続殺人事件の経過を違う視点から何度もなぞる構造になっているのと、あらゆる脇役に物語が描き込まれているのでとにかく長くて、少しずつ読み進めると途中でこの長さに辟易してしまうかもしれない。しかし、どかんと時間を取って向き合うとき、その文章量は小説世界のリアリティを保証してくれる。あまりに引き込まれて、朝から晩までほとんど食事も取らずに没頭というのを2日も繰り返してしまった。

 この著者の「ページをめくらせる力」はものすごい。何年も前に『火車』を読んだときもあまりに面白くて地下鉄駅のベンチでストーリーが佳境に入って立ち上がれなくなり、1時間くらいそのまま座って読み切った記憶がある。『模倣犯』も同じくらい面白かった。次から次へページをめくっても終わらず、かといって飽きさせることもなく、長時間物語に没入するという幸せな時間を味わうことができた。

 最近ちまちまといろんなものをつまみ食いするみたいな読書が多かったのだけど、宮部みゆきの筆力に引っ張られて中距離全力ダッシュみたいな読み方をしたので、この勢いのままちょっとハードめの本に手を付けたい。読むのもスポーツと同じで準備運動がないと読めない本というのがある。そのかわり一度勢いがつくとそのままガツガツ読み進んでいける。積ん読がすごいことになっているので少しでも片付けたい。

 

模倣犯〈上〉

模倣犯〈上〉

 
模倣犯〈下〉

模倣犯〈下〉

 

 

 

 それはそれとして、アメリカ駐在員っぽい記事もいいかげん何か書かないと、看板に偽りありの指摘は免れないな…。

【観た】三池崇史「FAMILYファミリー」

 三池崇史「FAMILYファミリー」2001年

 岩城滉一木村一八加勢大周というワルい3人がマフィア、自衛隊、殺し屋の3兄弟を演じる話。他にも悪そうな人がいっぱい出てきて悪そうな遠藤憲一が女性をひどい目にあわせたりして3兄弟がキレるみたいな特に深みはない作品なんだけど、キレた兄弟がなぜか戦車で遠藤憲一のアジトに突っ込んでくるところは声を出して笑ったし、戦車でびっくりしたことを表現する遠藤憲一の演技にも笑ったし、兄弟が敵アジトの前まで戦車で乗り込んだあげく戦車を降りて素手で戦い始めた場面が一番笑えた。

 あと、なんかグラサンの空手の師範が本筋に関係なくやたら出てくるな…と思ったらそれが原作者の真樹日佐夫だったとかツッコミどころ満載で、特に観ることは勧めないけどB級のすごみでニヤニヤしたいならばDVDかVHSで探してみてもいいかもしれない。

【読んだ】『照葉樹林文化』『暗黒神話』

 上山春平編『照葉樹林文化―日本文化の深層』を読んだ。これは上山(哲学)が音頭をとったシンポジウムの記録で、中尾佐助(植物学)、吉良竜夫(生態学)、岡崎敬(考古学)、岩田慶治文化人類学) という錚々たる京大閥の面々が顔を揃えている。稲作伝来以前の縄文文化がどんなものだったか、当時一流の学者が学際的に喧々諤々するという舞台設定なのだが、読み終わってみるとそれぞれ勝手に自説を披露しあって終わった感も否めない。こういうこともあります、こういうこともあります、の繰り返しでどこにもたどり着かずに議論は突然終わる。ひとつには上山自身が認める通り、縄文時代の研究を本業にしている専門家がひとりもいなかったためだろう。

 また、やはり半世紀前の本であるから、どうしても議論の古さが否めない。この論者たちに共通するのは今西錦司を中心とした京都の人脈であり、今西学派は自然科学の分野では既に乗り越えられた学説という評価が一般的なようだ。私は私なりにその適否を論じる力はないが、ともかくこのおじさんたち、特に中尾佐助の「えらそう」な語り口に辟易してしまいページをめくるのに骨が折れた。この人達の学問の基底には京都大学の探検メンバーとしてアジアから南太平洋にかけて縦横無尽に駆け回った経験があるのだけれど、アジアの森林から生まれる文化を語っているときに平気で「あの連中の農業は未開だね」とか「ああいう暗くて猥雑な森では快活な気持ちは生まれないね」とか言うので、そのたびにムム…と手が止まってしまう。ポストコロニアリズム早よ出てこいという感じである。

 こういう話題に興味があるならもっと新しい本を読んだほうがいいという感想が強いが、「科学」を装った日本人論の一類型として読むならば史料的価値はあると思う。

照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))

照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))

 

 

  続けてなんとなく諸星大二郎の『暗黒神話』を読んだら、これはむちゃくちゃ面白い。同じ縄文時代で想像力を働かすんだったらこれくらい荒唐無稽にやってほしい。単なる古代のお宝をめぐるサスペンスかと思いきや、短い話数でえ、え、どこまで行くの?とすごい勢いで全宇宙まで話のスケールがビッグバンしていくので笑っちゃう。上掲のまじめそうなシンポジウム本と実は興味のスコープは似ているのに、表現としてここまで違うものができあがってくる。こちらはとてもおすすめ。

暗黒神話 (集英社文庫(コミック版))

暗黒神話 (集英社文庫(コミック版))

 

 

【読んだ】今日マチ子『いちご戦争』

  読んだというより味わったという感覚だ。漫画の形式を借りた、これは詩だ。

 果物やお菓子の森でカーキ色の服を着た無個性な少女たちがうつ伏せにのびている。飛び散るいちご、すいかの汁、腹部を貫くポッキー。この上なく淡くかわいいペンの線と水彩でこの作家が駆使しているのは詩人の暗喩である。血と臓物のことを描いている作品なのだが、後味はフルーツサンドである。

 初めて今日マチ子を知ったのは2015年に京都国際マンガミュージアムでやっていた「マンガと戦争展」だ。戦中派の大御所から新進気鋭の戦後世代まで戦争を扱った作品を網羅的に集めた展示で、こうの史代小林よしのりが同じところに並んでいるというのが面白かったのだが、呉智英の監修によるものだったと後で知ってさもありなん。ともかくここで知った作品はその後ずいぶん読んで勉強になった。

 中でも今日マチ子の『cocoon』と『いちご戦争』の原画は異質だった。きれいでかわいい。きれいでかわいいことによってきわめて効果的に戦争のえげつなさを伝えている。

 展示を見た後すぐ、沖縄戦を描いた『cocoon』の方を買って読み、なんだこれすごいと余韻に浸っているうちにそれだけで数年が経ってしまった。で、ようやく『いちご戦争』を手に取る機会ができたのが最近。感想は冒頭の通りである。

 海外でも文化研究をしているインテリ、アート肌の人には受けているようだが、もっといろいろな文脈で読まれてほしいと思う。この表現はちょっと他には真似できない。

 

いちご戦争

いちご戦争

 

【読んだ】リーヴ・ストロームクヴィスト『禁断の果実』

 スウェーデン発の「フェミニズム・ギャグ・コミック」。邦訳を手がけた編集者の山口さんのSNSから毎日情報が流れ込んでくるのでこれは読まずばなるまいと、年末の帰省ついでに東京国立は増田書店で買ってきた。ロサンゼルスに戻ってしばらく他の本と一緒に積んでおいた間にもよく売れていて、反響も大きいようだ。

 満を持して手にとってみると、ポップな絵柄とドライな皮肉に助けられて意外にすらすら軽い気持ちで読み終わった。しかし内容は女性の性器、月経、オーガズム…がいかに男たちのしょうもない思い込みと決めつけによって当の女性から奪われ、ねじ曲げられ、隠され(隠さされ)てきたかを紹介するというシリアスなもの。こんな風に笑いながらさっくり読めていいのかしらと戸惑うほどである。

 内容的にもビジュアル的にもコラージュが多用されており、こんなことがあった…この人がこんなことを言った…とフラッシュカードのように情報が入ってきて目が回ってくるところに、スッと差し挟まれる第4章「イブたちの声―女性の身体と恥の感情」というパートが、一転、淡々としたトーンで印象深い。インターネット等から汲み上げられた匿名の声を伝えている。

 ネットで見かけた本書に対する反発の中に、「この本は女性を絶対的な被害者として、女性の加害者性や男性の被害者性を見えなくしている!」というものがあった。わりかしTwitterでよく見かける気鋭の?論者からの批判だった。ふーんそういう読み方もあるのかと思ってもう一度読み返してみたのだけど、これはどうも最初の数ページだけを切り取った脊髄反射的な反応であるように思える。本書では最初のパート「女性器に興味を持ちすぎた男たち」で古今東西の男性論者による(大変力を持った)女性論をバッサバッサと切り捨てていて、それが件の批判者の眼には「古いフェミニズム」のように映ったようだが、そこからさらにページをめくれば不可視化の構造維持に女性が加担して(させられて)いたことも描き込まれているし、虐げられた男性がいなかったと書かれているわけでもない。

 私が読者としてむしろ気をつけないといけないと思ったのは、本書はヨーロッパの人によってヨーロッパの現象についてヨーロッパの事例を中心に書かれているという点。私の生まれ育った日本という国は近代以来欧米の多大な影響下にあるとはいえ、思想・性器・オーガズム・感情・月経という本書の各ポイントについて、日本には日本なりの文脈もあろう。自分自身の禁忌の感覚を省みてみても、その中にはキリスト教や欧米の思想・科学だけでは説明しきれないものがいろいろ混じっている感じがする。日本版『禁断の果実』が描かれるとしたら…?という仮定でどんな本が作れるか考えてみるのも面白いだろう。もちろん「仮定」するまでもなく先行する啓蒙的な取り組みが日本にも多々あるのだろうが、少なくとも不勉強な私はこの本を読んで初めてちゃんと考えたということが多かった。ありがたい。

 この本の功績は副題の表す通り、正面切って語られにくい「身体と性のタブー」を、コミックという方法によって皆の目に見える明るい場所まで引っ張り出したことだと思う。特に男性にとって、よく分からない女性の身体と性についてこんなに手に取りやすい入り口もなかなか見ない。女性のことが描かれているからといって別に対岸の火事ではなく、男性(もしくはそれ以外)としての自分の身体だってまたある種の規範の影響下にあるわけで、どんな性別の人が読んだって得るものは大きい。ぜひたくさんの人に読まれて、世の中の風通しがよくなることを願う。

 

禁断の果実  女性の身体と性のタブー

禁断の果実 女性の身体と性のタブー