カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス駐在の日記です。2017年10月から

【観た】ジョーカー

 先週「ジョーカー」観た。圧倒されてしまった。勢いで翌日もう一回観に行った。二日続けて同じ映画を観るなんて初めて。

 一回目はとにかく没入した。というか取り込まれた。家に帰る車の中で「ジョーカー笑い」している自分に気づいて怖くなったくらい、人格が半分くらい侵食されていた。

 他の人が言い尽くしているけれどもまずホアキン・フェニックスの怪演がとんでもない。「かわいそうなプアホワイト」を演じているという評価があるみたいだけど、これ、ぜんぜんかわいそうなだけのキャラクターではない。かわいそうに見えて狂った空洞、という困難な役柄を成立させきっていてすごい。セリフがすごいとか踊りがすごいとか、そういう個別の要素が立っているのではなく、統合された一つの人格が現出してしまっている。ほか、助演の俳優陣、あるいは音楽、撮影、編集なども全て隙なくびしっと決まっていて気持ちがいい。

 冒頭、どでかい黄色のフォントでタイトルが出る。その瞬間「美しい!」と思ってしまって、その後はラストまでジェットコースター。めくるめく映画的快楽の中をなすすべなく引きずり回されて終わり。

 な、なんだったんだこれは・・・?と家でネットのネタバレレビューを片っ端から読んだ。すると、この映画にはぜんぜん気づいてなかった複雑な仕掛けが施されていたようだった。作品のメタ構造を明示する、ある重要なシーンをベタに見逃していたことも判明。これはもうちょっと落ち着いて検証しなければならんと思って、次の日すぐ映画館を再訪した。

 二回目は心の準備ができていたので、最初のように引きずり込まれずに、ある程度距離を保って楽しむことができた。しかし、離れてみるとこの映画の底意地の悪さというか、巧妙さというか、仕込まれた「毒」がよく分かる。すごい映画なんだけど、人に勧めるには危険すぎる。

 世の中で賛否両論なのも納得だ。ジョーカーという過去作で絶対悪として描かれたキャラクターに感情移入を促すかのような作りになっているため、ジョーカー側に引き込まれそうになる。しかし、二回観てみると、最初自分が感じたジョーカーへの共感というのは、擬似的なものだったんじゃないかという思いが強くなった。社会の底辺ですり潰されながらジョーカーになっていく男を描いた映画なのだが、「ひどい目にあわされたから、キレてジョーカーになった」という因果関係は考えれば考えるほど分からなくなるのだ。なんでジョーカーが生まれたかを描いた映画だと思ったのに、なんでジョーカーが生まれたのか、その答えがどんどん遠ざかっていくような感覚に陥るのだ。

 共感の橋渡しをするような素振りをしながら、実はその橋の先には空虚だけが広がっている。一筋縄ではいかない映画だと思う。称賛も批判もどこまで空転させていくような厄介な空虚さだ。ある映画評で「全ての要素がパフォーマンスに過ぎず、実質は空虚だ」と批判的に書いているものがあった。私は逆に、その空虚さを空虚なまま提示しているところがこの映画の凄味だと思う。好き嫌いは別として、このシニシズムド級のエンタテインメントの中で見せているというところに参った。

 優れて「ひとこと言いたくなる映画」なので色々な人が色々なことを言っているが、総じてこの映画のことをきちんと批判するのは大変だな・・・という感じ。唯一ああたしかにそれは良くないねと納得したのは、ある印象的なシーンで使われている楽曲が、児童買春で有名な歌手によるものであること。この曲がまた死ぬほどキマっているので困ってしまうのだが。

 うっかりするとまた観に行ってしまうかもしれん。

 

 

 以下、面白かった評論を二つほど貼っておく。(観る前に読んではいけません)

 

 

virtualgorillaplus.com

 

realsound.jp

コリアタウンご近所物語

 いつものようにアパートで晩飯を作りながらアニメを見ていると、トントンと扉をたたく音がする。おや、こんな夜更けに誰だろう・・・。

 ドアを開けると、知らないおじさんが立っていた。片手には皿を持っていて、山盛りのかき揚げにラップがかけてある。藤沢とおるの漫画だったら、顔の横にでっかく「!?」と浮かぶシチュエーションである。誰?

 以下、おじさんとのやり取り。

 

おじさん「私、斜向いの部屋に住んでるものです。こないだはお母様にすっかりごちそうになっちゃって・・・。これ(かき揚げ)、良かったらお返しにどうぞ」

私「えっと、私一人暮らしで母いないんですけど。誰かとお間違えじゃないですか?」

お「え、一人暮らし?これは失礼しました。えーと、フィリピンの方のおうちに用があったんですが」

私「それなら隣ですね」

お「あ、そうですか。お騒がせしてすみませんでした」

私「隣、留守みたいですけど」

お「あ・・・」

私「連休でどっか出かけちゃったみたいですね」

お「・・・(どうしたものかとかき揚げを見つめる)」

私「・・・(物欲しそうにかき揚げを見つめる)」

お「・・・じゃあせっかくなので、あなたが召し上がりますか?」

私「え、いいんですか?なんかすみません、ありがとうございます。ははは」

 

 なんだか分からないうちに、かき揚げを手に入れた。狐につままれたような気持ちで一口食べてみると、、、ンマーイ!

 ごぼう、にんじん、ねぎの細切りがカラッと揚がっている。何を隠そう私はごぼうかき揚げとにんじんのかき揚げに目がないのだ。しかもおそらく衣にうま味調味料が混ぜてある、悪いかき揚げである。どこかのお惣菜コーナーで買った感じ。なんだか思いがけなく食卓が豊かになってしまった。

 これはぜひともお返しせねばならぬ。ちょうどそのとき手羽中の味噌焼きを調理していたので、できあがりをタッパーに詰めておじさんの部屋に持っていった。味に自信がなかったので、たまたま買い込んでいたみかんもいくつか添えた。

 夜10時半を回っていたのでどうかと思ったけど、次にいつ会えるか分からないので押しかけた。先程はどうも、ちょうど鶏肉焼いてたところなんでよろしければ召し上がれ、と韓国語で伝えると喜んで受け取ってくれた。お互いの名前も知ることができて、今後よろしくねという感じになった。

 これまで2年住んだアパートだけど、近所付き合いは皆無に等しかったので、なんだか嬉しい。今度はパイナップルでも切って持っていこうかな。

追悼ク・ハラ&ソルリ

 元KARAのク・ハラと元f(x)のソルリが自ら命を絶った。とても悲しい。

 この二人は私の人生で最も不安定な時期を支えてくれた人たちだ。KARAは言うまでもなく少女時代と並んで韓流第2世代を牽引したトップグループであるし、f(x)はその少女時代の妹分として、単なるアイドルを越えて音楽ユニットとして高い評価を得たグループである。ク・ハラもソルリも非常に人気があり、私も大好きだった。

 2008〜2013年頃の5年ほど、私はK-Popにどっぷりハマっていた。今回相次いで亡くなった二人が大活躍していた時期だ。ハマっていたというのは綺麗な言い方で、より正確に言うと、依存していた。4つある韓国の代表的な歌番組は、毎週放送され次第、欠かさずYoutubeでチェックしていたし、それでは飽き足らずにアイドルの出演するバラエティ番組まで手当り次第に見ていた。決して暇ではなかったが、のべ何千時間を費やしたか分からない。その結果、韓国語の聞き取り能力は飛躍的に向上し、その他の学業成績は軒並み低迷した。

 大学入学から就職にかけてのこの時期、主に「モテない」ことに起因する諸々により、気分の振り幅の大きい生活を送っていた。最高に素晴らしい瞬間と、最低に惨めな瞬間が繰り返しやってきて実にしんどかったが、毎日寝る前に動画をサーチしていると最悪の考えから逃げることができた。

 どんなときも彼女たち(男性アイドルも追ってたので「彼ら」も)はかわいく、セクシーで、かっこよく、堂々としていた。私にとって間違いなく欲望の対象だったが、それだけではなかった。彼女たちの舞台上の身体操作は完璧で、血のにじむような鍛錬を経ていることは間違いないのに、振りまく愛嬌からは微塵もそれを感じさせない。年齢が近いことも相まって、そのプロ意識というかド根性に完全にやられてしまった。あの人達があそこまでやっているのに、俺は何をやっているんだ?と思うと、錆びついた向上心がむくむくと頭をもたげるのだった。(たいていすぐしぼんだけど)

 もちろん彼女たちが幼少時から熾烈な競争にさらされることや、成功してからもネットやマスコミのひどい中傷と戦わなければならないことは知っていた。その厳しさを背負っていると思うからこそ、きつい中で笑顔で踊っているからこそ、ますます輝いて見えた。有り体に言えば、彼女たちの置かれた状況を所与のものとして、全て込みで消費していたということだ。

 私のような人ばかりとは言わないが、今回の連続自死の報せを聞いて、同じような後ろめたさを思い出したファンはけっこういると思う。こんなふうに若い人を追い詰める構造を持った産業から救いをもらってしまった過去は否定できない。けれども、この先こんなことはもう起きないようにしなければならない。

 2日前にク・ハラの訃報を聞いてからあまり考えないようにしていたが、今夜は久しぶりにKARAとf(x)の活動期の動画を渉猟してみた。画面の向こうで頑張っているこの人たちはもうこの世にいないのだと思うと、寂しくてならない。会ったこともない大切な人にもう会えないという気持ち。

 2012年にKARAが初のソウル単独コンサートを成功させたときの映像で、MCの時間にマイクを回されたク・ハラが感極まって泣き出すシーンがある。「デビューして3年間、家族に会えませんでした。今日は皆駆けつけてくれています。いつも連絡できずごめんなさい。今日は来てくれてありがとう」と。このセリフを7年後に聞いてこんなに悲しくなるとは、当時想像もしなかった。ハラの次にマイクを引き継いだリーダーのギュリは、会場のファンに向けてこう言っている。「皆さんが後日このライブのことを思い出したとき、ああKARAというグループが好きだったな、あのときは楽しかったなと、覚えておいてくださると嬉しいです」

 なんともなんとも。ありがとう。ありがとう。

 삼가 고인의 명복을 빕니다 진심으로.

メモリアルサービス→買い出し

 お世話になったある方の「メモリアルサービス」というものに参加してきた。日本語だと告別式とかお別れの会と訳されるのかもしれないが、非常に明るいカジュアルな雰囲気だった。私と故人とのお付き合いは日が浅いものだったのだけど、個人的にとても尊敬していたので図々しくお邪魔した。来場者同士で思い出を語り合ったり、ご飯を食べたり。老若男女かなりの数の人が集まっていた。コミュニティの核として慕われた人柄が偲ばれる。80を越えた方でこれだけ若い人に惜しまれるというのは、人生の理想形の一つではなかろうか、と感じた(僭越)。ご家族の方が「今日はお祝い事(celebration)にしたいのよ!」とおっしゃっていたのが印象的。

 その場を辞して近くの日系スーパーへ寄る。鯛の頭や、サッポロ一番の袋麺、皮付きの鶏モモなど、まとめ買い。

 併設された紀伊國屋書店を覗くと、いつの間にか面積の半分が雑貨屋になっている。前から文具コーナーがでかい店舗だったが、もはや漫画の棚まで縮小されて、これでは「本も置いてある日系雑貨店」だ。その上、事ここに至っても百田尚樹本、Hanada、Will等々はスペースを取って面陳してあるのだからシオシオのパー。ロサンゼルスでもこれらの書籍に一定の読者がいるということは私もとっくに学んでいて、それをどうこう言う気はないのだが、焼け石に水の気持ちで川上弘美中村文則の文庫本を買った。(ジャンプとヤングジャンプも久々に購入)

 

 来週末はサンクスギビングの連休で、しまった何も予定がないと思ってたけど、ひたすら積ん読の解消に費やそうかと思う。

クルマの排ガス検査 Smog Check 初体験

 車の検査に行ってきた。カリフォルニア州で古い車に乗っていると、2年にいっぺんスモッグチェックというのを受けなければならない。排ガス中の汚染物質が基準値以内に収まっているかどうかのチェックだ。こちらに日本の車検のような制度はないのだけど、このチェックをパスしないと次の1年の自動車登録証がもらえず、もらえないまま走っていると、これはもういつポリスにしょっぴかれても何も文句は言えましぇんということになる。したがって交通局(DMV)から通知が来たら、粛々とお近くの整備工場やガソリンスタンドでチェックしてもらわないといけない。

 誰でも多かれ少なかれそうだと思うが、私、こういうのがとても苦手である。「初めてでなんだかよく分からない、しかもやらないとすごい不利益を被る手続き」と思うだけで、あーもうやだやだもう来週にしよ、来月にしよ、来年にしよ、と想像を絶するルーズさで先送りにすること山の如し。面倒くさいことは本当にやりたくない。

 とか言いつつ、今日は仕事をオフにできたので重い腰を上げて行ってきた。こういう民草のものぐさ心理を当局はよく分かっていて、さっさと行けば安く済むというシステムになっているのである。

 近所の整備屋でレビューの良さそうなところに車を乗り入れて、スモッグチェックですと伝えると、はいはいじゃあここに止めて10分くらい待っててね、とおじさん。計測器をパパッとつないでエンジンを一回だけブオンとふかしてそれで終わり。5分くらいで検査合格のお知らせ。ああ良かった。50ドル払って家に帰る。

 実は触媒の機能に不安があった。部品交換だと最悪十万円くらい飛ぶかもという危惧があったのでパスできて安心した。当面は怯えずに運転できそう。

 行く前はひたすら行きたくなかったけど、今日はえいやで片付けられてよかった。思ったより遥かに簡単だった。次の懸案は歯医者。これもうまく勢いつけて予約とらねば…。

【観た】ポン・ジュノ監督「パラサイト 半地下の家族」

 「パラサイト 半地下の家族」を観てきた。まず言っておくと、すんごく面白かった。こないだ書いたポン・ジュノ特集でも上映されたのだが、監督本人が来るということで気づいたときにはチケットが売り切れだった。とはいえこれは新しい映画なので別に特集上映じゃなくても普通に市中の映画館でやっている。

 やっているどころか、すごい評判だ。映画の始まる前にスマホを確認したら「今年北米で公開された外国映画でNo. 1の動員」を達成したというニュースが入っていた。これはまだ最初の一ヶ月だけの数字で、まだまだ伸びるという。*1これは韓国映画としてはもちろん、ポン・ジュノ監督作品としてもぶっちぎりの歴史的ヒットである。さっき観てきたときもわりと席が埋まっていた。Twitterで「Parasite」と検索すると、英語でも絶賛の嵐だ。

 日本でも話題になってたと思ってたけど、日本でのロードショーは年明けから。ネットで見た口コミは試写会からのよう。カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した勢いで、アカデミー賞外国語映画賞も期待されている。

 内容については何を言ってもネタバレになってしまう。とにかくネタバレ情報を目に入れないうちに、公開されたら早く観たほうがよい。ポン・ジュノ監督がこれまで評価されてきた、大胆な構図、リアルな社会格差の描写、二転三転するストーリー、不安な笑いなど様々な要素が最大に研ぎ澄まされている。ソン・ガンホの「いつもは頼りないのにいざとなると良くも悪くも突き抜けるおじさん」の演技もいつも通り最高だ。他のキャストもソン・ガンホに負けず劣らずすごい。友人、知人にはぜひ観てほしい。

 

 とにかくこの半月でこの監督の映画は5本目だ。ひとつ特徴的だなと思っているのは、彼の作品におけるアメリカの存在感。「グエムル」は米軍が実際に起こした漢江の化学汚染事件から着想を得ているし、「殺人の追憶」ではアメリカにしかない最新テクノロジーが物語の鍵になっていた。この「パラサイト」でも詳しくは言えないけど、韓国社会におけるアメリカへの眼差しがさりげなく示唆され、作品のスパイスになっている。作品の外でも、「オクジャ」や「スノーピアサー」ではアメリカの制作陣とがっちり組んでいる。私自身コリアタウンに住まいを借りているということもあり、このへんの、フィクションおよびその制作過程に見る韓米関係というのは少し調べてみたいテーマだ。

【読んだ】アーシュラ・ル=グウィン晩年詩集

 ここ2ヶ月ほど、寝る前にル=グウィンの詩を読んでいた。「So Far So Good: Final Poems: 2014-2018」、昨年亡くなった作家の最晩年の詩集だ。9月にポートランドに行ったとき、独立系書店の雄Powell's City of Booksで買った。彼女がまさにそのポートランドに住んでいたことは、後から知った。

 ル=グウィンは私にとって何よりまず「ゲド戦記」の作者である。C・S・ルイスやトールキン、スーザン・クーパーと並んで、物語に没入する感覚を最初に教えてくれた人だ。言葉と責任の関係や、自我との向きあい方について最初に教えてくれた人でもある。巻を追うごとに説教臭くなってくるので幼い私にはついていけない部分もあったが、第一巻「影との戦い」の海と風の感覚、それに過ちをおかした若い主人公の苦悩からは大きな影響を受けた。今読んだらもっと年長の登場人物に感情移入して、違う読み方ができるのだと思う。

  アメリカに来てみると、この作家は単に「ゲド戦記」の作家であるというだけでなく、60年代以降の代表的なSF作家の一人であり、フェミニズムや反商業主義に関する発言により広く尊敬された人物であるということがよく分かる。2014年、全米図書賞で長年の功績を表彰されたときの記念スピーチ(下)では、想像力のある物書きのことを「より大きな現実についてのリアリスト」と呼び、文芸の自由と責任を守るよう警鐘を鳴らした。彼女はGoogleAmazonによる書籍のコモディティ化に対する痛烈な批判者であった。(ついさっきナオミ・クラインもこのスピーチを引用してツイートしていた)

 

 実は以前にPowell's書店を訪れたときもル=グウィンSF小説を少し買っていたのだが、読解力の点で気おくれして長らく積ん読にしてあった。今回詩集を買ったのは、ずばり「短いから」。店頭でぱらぱらめくった感じでは一編一編も長くないし、あんまり難しい単語も出てこないし、どうにか読めそうに思えた。

 この安易な考えは、半分正解で半分間違いだった。短さという点では、寝る前に2,3ページずつ味わうのに最適だった。スタンドの明かりの下で静謐なアルファベットの列を目で追い、またときたま口に出して読んでみていると、頭に渦巻いていた日本語のよしなしごとがすっと後ろに引いていく。寝る前の日課としてとても良い効果があった。

 ただ、速く読めるということと、内容が分かるということは全く別である。長く住んだカリフォルニアの情景を描写した詩などは、私がハイキングで見る景色と重なってとてもよく分かる。太陽と水とオーク(楢)と小動物の関係を描いた「七月」という、10行の短詩はいちばん気に入った。しかし、死を間近に意識した作品になると、破格の文構造も相まって、意味が取れない表現も多い。あと50年くらい生きたら私にもわかるんじゃないかと思うけど、よしんばそんなに生きていられたとして、そのとき英語の詩を読める状態かどうか。

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 本書を出版したNPO(Copper Canyon Press)の編集者によると、本書執筆中のル=グウィンは大作家に似合わぬ親切さと謙虚さをそなえていたという。初稿が戻された際、赤の入った原稿を見て編集者の評価に向き合うのが怖いとこぼしたとか。

 代表的な小説を発表し終えたある時期以降、彼女にとっても最も重要なジャンルは詩であった。ル=グウィンはこの原稿を仕上げたあと、出版を待たずにポートランドで生涯を終えた。*1

 

So Far So Good: Final Poems: 2014-2018

So Far So Good: Final Poems: 2014-2018