カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス生活の日記だったけど、今は大阪にいます。

【観た】プロメア

 「プロメア」観た。

 日本でのロングランヒットの様子を見ていて気になっていたので、仕事の後ちょっと遠くの映画館まで頑張って観に行った。アメリカでは公開期間が短いようなんだけど、レビューサイトの評価はめちゃくちゃ高い。同じ監督・脚本の「天元突破グレンラガン」の人気が高いので、そのファンが今回も推している雰囲気だ。私もグレンラガンは大好きだし、期待大だった。

 結果、ぜんぜんついていけなかった。動画表現としては超絶すばらしい。CGを二次元風にうまくアレンジした世界で、かっこいいキャラクターとロボが、見たことのない動きで暴れまわる。アニメを綺麗にかっこよく見せる技術はぶっちぎりの世界トップレベルだと思った。

 ただ、せっかくの技術も、やれることを全部詰め込んだという感じで、目で追いきれない。コンマ数秒の感覚で矢継ぎ早に視点が切り替わるわりに、俯瞰に引いたカットがないので、せっかくのバトルシーンで、誰がどこで何をしてるのかわからない。最初は自分の目が悪いせいかなと思ったけど、いくらなんでも画が速すぎる。何が起きているか分からないのをずっと見せられているとけっこうつらいものがある。

 脚本もとにかく盛り込みすぎていて、緩急がない。主人公は熱血バカなんだけど、なんで熱血バカになったのか説明はないし、なんなら他のキャラもある意味熱血バカばかりなのでメリハリがない。それから、ストーリーの中である重要な「裏切り」が起きるんだけど、裏切られる前にどれだけ深く信頼していたかという描き込みがないので、裏切られてもあまり悔しくない。万事そんな感じで、「あんまり反目してたわけでもない和解」「そんなに未熟だったわけでもない成長」「最終バトルで出番はないけど頼れる仲間」etc. etc.…自分の心のなかで「もっと落差ちょうだい落差!」と叫ぶ声がうるさくて、美しい画面にすら集中できなくなってしまった。

 最終バトルの盛り上がりは、首をかしげていた私もつい熱くなるようなものすごい「盛り上げ力」で、たしかにすごかったんだけど、それも「グレンラガン追体験した感じ」だった。TVアニメの総集編を見せられている感じ、というレビューがあったのが的確だと思う。これだけ要素を盛り込むのであれば、10話でも20話でもかけていいからもっとひとつひとつを丁寧に掘り下げたものを観たい。

 要素要素は最高で、うまく熱さに同調できれば高評価になるのだと思う。でも私個人の感想としては、「盛り込みすぎ」で楽しめなかった。2時間の映画だったらざっくり切ったほうが良い要素(キャラ数、エピソード、爆発等々)が多かった。あるいはむしろそのてんこ盛り感が好まれてるのかな。Not for meでした。時間が遅くて他に観客も少なかったけど、終わった後みんなわりと白けているように見えた。*1伝わらず残念。

*1:同じアメリカでも「満員で歓声とびまくり」というレポも読んでます。あくまで今日私の行った映画館がそうだったということです。念のため。

【読んだ】Yoko Ono 'EVERYTHING IN THE UNIVERSE is UNFINISHED'

 オノ・ヨーコの'EVERYTHING IN THE UNIVERSE is UNFINISHED'読了。

 

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表紙が不気味

 

 アートブック、と呼べばよいのか、絵と詩と短編小説のようなものと、読者への短いメッセージがつれづれに編み込んである。去年出た本で、わりかし新しい。タイトルは「この世の全ては仕上げ途中」という感じ?

 アメリカで美術館や本屋をほっつき歩いているとけっこうな頻度で彼女の作品に出くわす。アートに門外漢なので、「ヨーコ・オノ」がこんなに広く評価されているとは知らなかった。評価されてないとも思ってなかったけど。それでちょっとこれは勉強しないとなと思っていたところで、この本を買ってみた。

 買った理由は、ずばり短いから。あと、比較的意味が分かる(抽象度が低い)文章だったから。長くて意味が分からないとつらいからね…。

 こないだロサンゼルスのSkylight Booksというステキ本屋に日本の友達を連れて行ったときに、そいつが実にじっくり棚を探索するものだから、私も待っている間にいろいろ買ってしまった。これはそのうちの一冊。短いのでさっき読んでみた。30分もしないで読めた。

 月並だが、元気が出た。書いてあることは走り書き的であっちゃこっちゃに飛び、想像力がけっこう忙しい。けれども、通底しているのはLove & Peaceである。平和は実現可能だし、あんたの愛は力になるし、いろいろあるけどあんたの人生はけっこうイケてる、というメッセージを私は受け取った。あながちステレオタイプな読みということでもないと思う。なんだか分からないけど、ポジティブが各ページからじくじくとにじみ出ている。

 途中からぼそぼそ音読しながら読んでいると、なんだか自分の腹から彼女の言葉が出ているようで、よっしゃやったるぞという気持ちになってきた。一人の部屋であと寝るだけなんだけど。

 

Yoko Ono: Everything in the Universe Is Unfinished

Yoko Ono: Everything in the Universe Is Unfinished

 

 

【読んだ】望月優大『ふたつの日本』

 『ふたつの日本』読了。これも年始に日本で「今読まねば」と買い込んだうちの一冊。私はもともと人や文化の移動に関わる仕事をしている上に、今は海外赴任によって「外国人労働者」の身となっている。日本における「移民」の現状認識のために書かれた本書はまさに必読だった。

 「移民」とひとくちに言ってもいろいろな定義がある。留学生、技能実習生、日系人、永住者、特別永住者非正規滞在者…様々な用語を眺めているうちにわけが分からなくなってくる。本書はまずそこを丁寧に整理してくれているのがありがたい。「どういう移民が」「いつから」「どのくらい」いる(いた)のか?という基本すら私はよく分かっていなかったので、統計や制度史をきちんと使って解説してくれる本書はとても参考になった。こうした基本事実をざっと一望できる本が、「特定技能」制度の開始とほぼ同じタイミングで出たということは非常に重要だ。

 それから、「技能実習」「特定技能」「入管による収容」といったホットイシューについてもどんな制度で何が問題かという概要を押さえている。報道で問題があることは何となく知っていても、なぜ今話題として浮上しているのかは理解不足だったので助かった。共通する問題構造まで指摘している点も勉強になった。

 淡々と事実の解説に務める本書の中で、一転して終章は「熱い」。10ページちょっとの分量だが著者の問題意識が真摯に表明されている。「これは移民ではありませんよ」という建前の裏でなし崩し的に人の受け入れを拡大し続けてきた日本のやり方が「人間の否認」であり、それが外国人だけに及ぶものではないことをきちんと指摘していて、我が意を得たりという気持ちになった。

 タイトルは「ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実」で、これも秀逸。移民の話だけなら「日本の移民問題」でもよかったかもしれないが、「ふたつの日本」とすることで、これが単に移民の話だけを扱った本ではなく、分断された私達の社会についての本であることがうまく示唆されている。

 最後の6行を褒めるレビューが多いけどそれは実際に読んでもらうのがいいだろう。それとは別に共感した箇所として「はじめに」から少し引用しておきたい。

この国はすでに数え切れないほどの複数性と複雑さを抱え込んでいる。純粋無垢な「ひとつの日本」に戻ることはできないし、実のところ戻る場所など元から存在すらしなかったのだ。故郷(ホーム)は孤独に懐かしむものではなく、たまたま居合わせた人々と一緒になってつくっていくものだと思う。(P.10)

 

 関心のある人で輪読したいなあ。

 

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久しぶりに赤ペン引きまくり

 

 

 

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

紙魚

 部屋にシミおった!

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かわいい

 古雑誌を持ち上げたらぽとりと落ちてきた。まさに小魚のごとく平面を走り回るスピードは「紙魚」の名にふさわしい。英語では銀色に光る鱗粉に着目して、Silverfish―銀魚と呼ぶそうだ。どちらも風流な名付けで、どこの国でも文人の身近に共存してきたゆえだろうか。

 この部屋でシミを見つけるのはたしか2回め。空っぽだったロサンゼルスの我が棲家もシミが走り回るくらい積ん読がたまってきたということであり、生物多様性尊重の観点からも寿ぐべきであろう。

 シミという虫は、昆虫が羽根を獲得する前の姿を留めた原始的な生物で、3億年前から姿が変わっていないといわれる。おそらく自然界の片隅で植物の切れ端を細々と食べていたこの生き物が、数百年前、人間の書物というニッチにいち早く入り込み、ヨーロッパから世界中に広がった。(各地に固有種がいると思われるが、ヨーロッパ種の分布は世界に広がる)そんな古代生物が私の本棚に住んでいるというのは、実にロマンがある。3億年前に完成したフォーマットで、現代人の住居という最新の環境に食い込んでいるのだから本当にすごい。

 そんなシミだが、「シミ 虫」でネット検索してみるとけっこう悲しい気分になる。日本語でトップにヒットするのはアース製薬の「害虫なるほど知恵袋」というページだ。書き出しを引用してみる。

 

本棚や書籍の近く、トイレやお風呂場、薄暗い部屋の壁、あるいは布団や障子や畳の上で…フナムシのような虫を見たことはありませんか?テカテカと光っていて、大きさは1cmくらい。もしかしたら、紙魚(シミ)という虫かもしれません。何といっても見た目が気持ち悪いこの虫、くねくねと素早く動く姿も奇妙で、ティッシュペーパー等で包んで潰すと銀色っぽい粉がつくところも嫌悪感をさらに増大させます。
と、散々な言われ様ですが、人体への影響はないのでご安心を。とはいえ、人に与える不快感は、ゴキブリ以上?何とも不思議な紙魚の謎に迫ります。この先は画像付きで解説していきますので、閲覧注意です…。

https://www.earth.jp/gaichu/wisdom/sonota/article_008.html

(2019年9月14日アクセス、フォント改変筆者)

 

 これ、ちょっとひどくないか。

 「と、散々な言われようですが」などと書いているが、「何といっても見た目が気持ち悪い」とか「嫌悪感」とか散々に言っているのはこの文章の書き手だ。あげく「人体への影響はない」にも関わらず、「不快感は、ゴキブリ以上?」と続ける。疑問形にすることによって、自分の意見ではないかのように偽装する書き方だ。

 シミなんてそんなに頻繁に目にする虫ではない。家中本だらけの私でも年に数回見るか見ないかなので、ほとんどの人は名前も知らないし、見たこともないだろう。まして、気持ちが悪くて耐えられないほどシミに悩まされている人ってどういう状況なのだろうか。よっぽど毎日本棚をひっくり返して探さないと見つからないし、そんなこと、よっぽどシミが好きじゃなければできないでしょう。*1

 殺虫剤のマーケットを掘り起こすために、未知の害虫の脅威を煽りたてているというのは分かるが、端的にシミに失礼だ。虫を専門としている会社だけにページの記述自体は正確で面白い内容だ。それを「気持ち悪いよね?気持ち悪いよね?」という感覚的な押しつけが台無しにしている。

 これ、アース製薬だけが悪いわけでなく、他にも殺虫剤を買わせようとして虫の気持ち悪さを強調しているアフィリエイトブログが山程ある。悲しいことに、英語でも「silverfish」を検索すると害虫駆除業者の広告が大量に出てくる状況だ。

 もちろん殺虫剤は人間の生活に必要なものだし、それを作って売るというのは立派な仕事だけれども、命を奪う商品に「需要創造型マーケティング」を使うのはもうちょっと慎重になったほうがいいんじゃないだろうか。たとえば、誰かが生まれてはじめてシミを見つけて好奇心が湧き、ネットで調べてみようと思ったとする。そんなとき、「気持ち悪いですよね?」「要注意!」「一掃するには?」みたいな記事しか出てこなかったらどうなるだろうか。読んだ人はおそらく殺虫剤を買ってはくれないと思う。たいていの家にはゴキブリ対策で既に1本くらい買ってあるだろうし、シミのためにもう1本買い増そうとはならない。ただただ、「みんな気持ち悪がってる」という根拠のない印象が広まるだけである。

 日本の大手殺虫剤メーカーは近年のヒアリ騒動に便乗してアリ全体への嫌悪感を煽り、殺アリ剤を相当売っているようだが、それでいいのか。虫を嫌悪する市場と、数種の強靭な昆虫だけが生き残れば後は何でもいいということなのであれば、私は「それは違うんじゃないの」と首をかしげ続けたいと思う。

*1:翌日追記:このエントリを読んだ複数の方から、「うちには実際いっぱいいて気持ち悪いと思ってる」という声をいただきました。この部分は私の狭い見聞で書いたので話半分に差っ引いてお読みください。でもやっぱり皆殺しにするほど目の敵にしてる人はいなかったけど…。

【読んだ】遠藤公男『ニホンオオカミの最後』

 去年出版され、今年の年明け頃に生き物界隈で話題になっていた『ニホンオオカミの最後』。正月の帰省のときに八重洲ブックセンター本店で買ったまま積んであった。

 著者は東アジアを股にかける動物ノンフィクション・児童文学の書き手。知らなかったけど略歴に魅力的なタイトルが並んでいる。本書は、戦後すぐの頃から著者が調べ続けた岩手県ニホンオオカミに関する生物学的痕跡、言い伝え、風習、行政記録などの集大成として一冊にまとめたもの。まさに労作と言うべき内容で、かなりの高齢でありながら出版にこぎつけてくれた著者の遠藤さんには心から御礼を申し上げたい。

 ニホンオオカミは明治時代、きちんと調査が行き届く前に絶滅してしまったため、私達には彼らの生きていた姿を知ることができない。標本も世界で指折り数えるしか現存しておらず、生体写真もない。日本列島の食物連鎖の頂点に立った肉食獣であり、その名は広く知れ渡っているにもかかわらず、それがどんな風に生き、滅んだのかは私も知らずに生きてきた。

 本書でいちばん紙幅が割かれているのは、盛岡藩岩手県の狼狩りの記録についてだ。順に追っていくと、江戸から明治にかけて近代化していく東北地方、特に牧畜産業の拡大がどうしようもなく狼のテリトリーと衝突していった様子がよく分かる。お上が賞金をかけたこともあり、銃や罠を使ってものすごい勢いで「害獣」を駆除していった勢いは相当なものであり、読んでいてつらい。

 一方、牛馬に限らずヒトの子供も思ったより頻繁に狼に食い殺された記録が残っており、東北の貧農にとっては思ったよりも大きな脅威であったことも知らなかった。もちろん脅威であるということは、同時に畏敬の対象であるということでもある。狼に関連した祭祀、民話など、長年の古老への聞き取り内容も非常に面白く読めた。

 鹿や猪の獣害が深刻化する昨今、日本の近代化が何を踏みにじって成立したのか、同じ「発展」をこれからも続けていくのか、あらためて考えることが必要と思う。

 前にこのブログで書いた『オオカミの護符』が関東地方のオオカミ文化を扱っているので、合わせて読むと東日本の流れが大まかにつかめて良い。オススメ。

 

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ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見

ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見

 

 

 

オオカミの護符 (新潮文庫)

オオカミの護符 (新潮文庫)

 

 

 

にわかが「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見た感想

 ネットフリックスでTVアニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見た。京都アニメーション制作。近世ヨーロッパ風の世界で、人間兵器として育てられた少女が、戦争終結後、代書屋に就職し、顧客や同僚との関係を通じて人間性を回復、成長していく物語だ。

 私は年に何本かしかアニメを見ないし、京都アニメーションのことも事件があるまでよく知らなかったんだけど、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見て衝撃を受けた。絵、ストーリー、演技、音楽が高い水準で調和していて、今更怒られるけどアニメってこんなにすごいことができるんだとあらためて思い知った。

 感情表現を持たずに周囲に溶け込めなかった主人公が、中盤、仲間に認められ始めたところでまず泣いた。いよいよ話が盛り上がる9話以降はハンカチが手放せなくなった。「手紙に想いを乗せる」ということが重要なモチーフになっていて、昨日書いたように私の最近の生活ともオーバーラップする側面があり、強く感情移入してしまった。三十男がひとりテレビの前でメソメソしてる画は気味のいいものではなかったが、それくらい良かった。ただ悲しくて泣けるとかいうことではなく、苦境の中でもがき、抵抗する登場人物たちの姿勢に打たれた。もう一回見たいと思うアニメは久しぶりだ。

 この作品には、ジョジョシリーズの「人間讃歌」というテーマや、ナウシカの「いのちは闇の中のまたたく光」というセリフにも通じるものがあると思う。少し前に見た同じく京アニ制作の映画「聲の形」もだけど、作り手の人達が人間や世界の美しさというものにきわめて強い肯定をもって臨んでいることが伝わってきた。

 報道によると「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のスタッフにも多数の死傷者が出ている。人の死に大小はないが、素晴らしい作品をひとつひとつ見ながら喪失の大きさを、遅れて確認している。歴史に残る仕事であるし、残さなければならないと思う。

 来週から日本では映画「外伝」が公開されるそうだ。作品がほぼできあがった矢先の事件だったということで、関係者の気持ちは想像の及ばないものがあるだろう。予告編のYoutubeコメント欄が外国語だらけなことから分かるように、海外でもこの作品と会社は広く愛されている。アニメに詳しくはないけど、アメリカでの事件の反響は少々分かる。アニメファンはもちろんのこと、そうでなくても事件のことは多くの人が心配している。

 新作映画、ロサンゼルスで見られる機会が来たらぜひ見に行きたい。

 


『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』予告

ときどき手紙を書きます

 ロサンゼルスに来てから、手紙を書くようになった。筆まめ、とは言えないがひと月に一度くらいはペンをとってみることにしている。しばしばもっと日にちが空いてしまうけど。東京で暮らしていたときはごちゃごちゃと気を引くあれこれが多く、そんな習慣はなかった。知り合いの全然いない土地に来て、時間と気持ちに隙間ができてから始めたことだ。

 なんでそんなことを始めたかというと、自分が手紙をもらったときの嬉しさを思い出したからだ。自分だけに宛てて言葉を送ってもらうというのは、内容にかかわらずとても気分が良い。手紙というのは通信手段としては言うまでもなく時代遅れのものだけど、それだけに相手が手間と時間をかけてくれたことは一瞬で伝わる。特にそれが海外からやってくるときは尚更だ。

 十代のある時期を最後に年賀状すら出さなくなったので、そんな私に誰かから手紙が来るはずもなかったが、それでもこれまでごく稀に、心のこもった手紙を書いてくれた酔狂な人がいた。自分は最近こんな感じだ、お前とはしばらく会っていないが達者なことと思う、また会う日までがんばれよ・・・そんな普通の文面が、人生の要所要所で私を支えてくれている。

 そういう感情を、今度は私が紙に字を書くだけでちょっとでも相手に渡すことができるなら、実にこんな手軽なこともあるまい。最初はアメリカでの郵便の出し方も知らなかったけれど、とにかく手元にあった絵葉書に肉親宛の近況を書きつけて、コリアタウンの郵便局に持っていった。移民の多いコリアタウンだけに、海外郵便を出す人は多いのかもしれない。窓口の係員は慣れた様子で「この宛名の書き方だと配達員が混乱するから」といって、大事な部分にマジックでアンダーラインを引いて強調してくれた。ついでに今後のため間違えられない宛名の書き方も教えてくれた。

 それからというもの、友人・家族と何度か手紙のやり取りをした。やり取りの回数はせいぜい両手で数えられるほどだが、この原始的な手段も捨てたものではないなと思っている。

 当たり前のこととして、手紙は「時間のかかる」ものであると同時に「時間をかける」ものでもある。まず葉書や便箋を買わなければいけない。巨大ネット企業が跋扈するアメリカでも、カードを贈り合う文化はまだまだ根強く、いろいろなところでレター関連商品を売っている。私は本屋が好きなので、文具コーナーでセンスの良いものを見るとつい買ってしまう。また、国立公園のビジターセンターなどにも結構いかしたポストカードが置いてあり、こういうのもちょこちょこ買ってしまう。結局出すより買うほうが多くて溜まってしまうのだが、本屋巡りやハイキングという自分のための趣味に、手紙を出す相手のことを考える時間が入り込んでくるのがなんだか心地よいと思っている。

 いざ書くとなっても、メールやテキストメッセージに比べて格段に時間がかかる。あらかじめ書くことを考えていたとしても、なんだかんだで三十分くらいは紙に向かっている。溜まったレターセット類からどれにしようか選んだり、筆が止まってソファに逃げたりしている時間を入れれば、結構な時間、一人の宛先のことを考えている。時間が際限なく細切れにされている現代、こんな時間の使い方はなかなかできないことだ。自分がその人にどんな言葉を発したいのか、発するべきなのか、じっと考えるとても貴重な機会になっている。逆に普段はそこまで考えず雑に言葉をやり取りしている、ということでもある。

 相手が多忙であろうが病で臥せっていようが、好きなタイミングで一方的に出しているので、いつも返事は期待していない。が、やはり返事が来るととても嬉しい。たまーーーに泣くこともある。

 手紙というのはどう考えても面倒くさい行為であり、長く続けるかどうかは分からない。住所を知らせあっている間柄も今や非常に少ない。けれども当面、少なくとも海外赴任している間だけは、ときどき思い出したようにやっていきたい。