カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス生活の日記だったけど、今は大阪にいます。

新習慣

 こわ、と思う。

 筋トレの話である。年末から筋トレを続けている。毎日続けてもうひと月半ほどになる。何年もトレーニングをしていなかったので、体を驚かせないように最初はミニマムに始めることにした。腕立て伏せや腹筋、背筋などの基本動作を「20回ずつ20日」続けることにして、冷蔵庫に貼ったメモ用紙に記録していった。始めて何日かは20回でもヒーコラ言っていたが、ネトフリ見ながら騙し騙し、20日経つ頃にはなんとかこなせるようになった。

 そのあと間を置かず「30回×30日」のフェイズに突入した。あと一週間ほどでそれも難なく達成できそうだ。部屋の目立つところに記録用紙を掲げたことで習慣づけに成功し、激しい眠気や風邪にも妨げられず続いている。

 当初の目論見ではこのあと「40回×40日」「50回×50日」とステップアップしていくつもりだった。無理なく続けて、年末あたりにベスト体重とそこそこの筋肉を獲得していたら良いなあというくらいの想定だ。

 そもそものモチベーションは、去年テント山行に初挑戦した際にあまりに荷物が重くて往生したことに端を発する。そのとき感じた「重い贅肉を減らしてかつ筋力上げたらもっと楽に登れるのでは」という思いが嵩じてトレーニングを始めてみる気になった。今のところ、三日坊主にもならず、どこか痛めることもなく、思い描いた通りに楽しく続けている。

 こわ、と思うのは、そういう「無理のないペース」に満足しない自分が見え隠れし始めていることである。30回やればよいと自分で決めたのに、元気な時は回数を足してみたり、おまけの動作を入れてみたり、している。「独房トレーニング」などという物騒なキーワードを検索したり、している。過去の経験からして、調子こいて関節を痛めるのはこういうタイミングだ。

 私のようなインドアで怠惰な人間を強制的にポジティブなアクションへいざなっていく筋トレの効果、心底おそろしい。鏡の前で自分の裸を撮ってSNSにアップするのも時間の問題だ。

 

 正直言って腹筋は割りたい。どうせなら効率的に脂肪を燃やしたい。敏捷かつスタミナのある体を手に入れたい。(今の自分が消えていく・・・)

穀物

 しばらく前から玄米を食っている。といっても「早炊き玄米」というのを三分の一だけ白米に混ぜているだけだけど。とてもいい。歯ごたえがあるのでよく噛むようになるし、味も全然損なわない。こないだ久しぶりに白米だけでご飯を炊いてみたらおいしさが強すぎて戸惑ったくらい、玄米混合に慣れてしまった。白米飯、こんなごちそう家で毎日食うもんじゃないという感じがした。ついつい食べすぎてしまうのは白米が美味すぎるからだたぶん。玄米飯はまずいわけじゃないけど、そのおいしさはもっと慎ましく隠れてる。

 なによりありがたいのは整腸作用。私は何かとしょっちゅうおなかこわすタチなので、主食で食物繊維がとれるのは非常に心強い。玄米食っても腹下す時は下すんだけど、ずいぶん改善した。

 正直、雑穀飯とか玄米食とか流行り始めたころは、白飯が美味いに決まってるじゃねえか、何を好き好んで混ぜものしなきゃいかんのじゃと思っていたが、加齢とともに栄養のことをシビアに考えざるをえなくなってきた。元来料理は好きなので、家庭科の授業で習った五大栄養素のことなど思い出しながら、新しい食材を取り入れるのは楽しい。

 こないだ料理本を見ていたら、炊き込みご飯にもちきびを入れるというレシピが出てきたので、韓国スーパーでもちきび買ってきてしまった。(ロサンゼルスの食の多様性バンザイ)明日の朝、米と混ぜて炊いてみるべく、今吸水させている。

 

 そのうち十六穀米の独自ブレンドとか始めそうで自分がこわい。

 

 

f:id:spimnida:20200121152338j:image

 

年末年始のできごと

 年末のなんだかんだで更新が切れてから一ヶ月たってしまった。肩慣らしに「なんだかんだ」を振り返ってみたい。

 まず、クリスマス前に若い友人が訪ねてきてくれた。三十路そこそこの私が若いというのだからものすごく若い、十代の人だが、「後輩」と呼ぶのもおこがましいので友人だ。日本人だが、自分の選んだ道、アメリカで頑張っている。めりめり音を立てて成長している様子をうなずきながら聞き、自分も洗われるような刺激を受けた。

 そんでその人と別れて家に帰る車の中。The Clashのライブアルバムを聞いていたら天啓が降りてきた。否、自分の中からふっと浮き上がってきた。俺がこれまでやってきた色々なこと、これから一生かけて続けたいこと、一言でいうとこれだ、というフレーズだ。それが何かということを書いているとまたエントリを結べなくなるので先送りにするけど、近年まれな悟りを得た。そんな仕事納めの夜であった。

 それから徹夜で荷造りしてすぐタイに飛んだ。乾季で観光には最適と聞いていたが、バンコクの気温はロサンゼルスと比べても20度くらい高くて参った。タイに住む人達は、めちゃくちゃ涼しいやないかいと言っていた。暑いので部屋にこもって、十二国記の新刊をひたすら読んでいた。乗り継ぎの関西空港で見つけて、こらえきれずに買ってしまったものだ。(4分冊で重かった) 練りに練られたとんでもない長編だったが、これについて書いているとキリがない。これもまたの機会に。

 バンコクから、隣国ラオスルアンパバーンに飛び、象に乗るなどもした。分厚い皮膚越しに触った象の頭骨や肩の骨は、本当にでかかった。生物の体の一部というよりは、「建材」みたいな何かだった。こんな偉大な存在が同じ哺乳類だなんて。

f:id:spimnida:20200118205815j:image

 ラオスは聞いていたとおり、のどかな国で、たった2泊の滞在だったけど大変よかった。美しい滝を見たり、変な服を買ったり、日暮れ時の屋形船でカゲロウの大群に突っ込んだり、した。ちなみに2泊のうち丸一日は食あたりにより、上からも下からも水分を噴射する一個の機械と化していた。つらかった。

 吐き気と頭痛でヘロヘロになりながらタイに戻り、駐在員の人にかまってもらったりしつつ、豊かな熱帯雨林で名高いカオヤイ国立公園にも遊びに行った。乾季なので虫はあまりいなかったが、親切なガイドさんのおかげでテナガザルやオオハシ、アジアゾウなどを観察することができた。密林の凄味の一端を味わったので、また日を改めて再訪したい。

f:id:spimnida:20200118205948j:image

f:id:spimnida:20200118210011j:image

 年越しの瞬間は、M-1のぺこぱの漫才に興奮しているうちに過ぎた。ロサンゼルスにいるせいで最近ますます、他人のおかしな点をあげつらってツッコむお笑いが駄目になっていたのだけど、あれはすごかった。従来のお笑いを前提としながら、同時にそれに異を唱えていくあのスタイルは、日本の芸能界の中でなかなかスリリングな道行きになると思う。しかし、ぜひとも活躍してほしい。また、仮にいろんな要因でテレビの舞台に定着できなかったとしても、あのM-1の舞台ひとつだけで、人々の記憶には残っていくだろうと思う。

 年始にさらに数日タイを観光した後、またフライトを乗り継いでロサンゼルスに帰ってきた。行きも帰りも日本の空港を経由したけど、懐かしい感じがぜんぜんしないのが面白かった。むしろ少しエキゾチックに感じた。私がやれやれと帰ってくる場所は、今ロサンゼルスなのだ。私はこれまで人生であんまり東京を離れたことがなかった。自分という生き物は2年で新しい場所をホームと認識するようになるんだな、というのが新しい発見だった。

f:id:spimnida:20200118205857j:image

 いろんなことがあったけど、ようやく通常モードの生活に戻ってきた。またちょこちょこ仕事して山に登って、合間に好きなことを書き散らかしていこうと思う。

 

おわり。

クレアモントの本屋

 今日はクレアモントという町をうろうろした。ロサンゼルスから東へ車で1時間ほどの学園都市だ。(ピーター・ドラッカーも長くここで教えたそうな)

 歩いて一回りできる市街地の中に、気軽な飲食店、古着屋、雑貨屋など、学生が好きそうなものがコンパクトに詰まっている。意外に新刊書店はない。学生・教員のニーズは購買部と図書館とAmazonで吸収されてしまうのだろうか。

 地図でbookstoreと検索して出てきたのは、工場をリノベした商業施設の中にある古本屋The Claremont Forum。

f:id:spimnida:20191214160657j:plain

薄暗い通路に比べて店内の照明が暖かい

 入ってみると、本は寄付されたものが一律定額で売られていて(ハードカバーは○ドル、ペーパーバックは○ドルという感じ)、どうも営利目的の書店ではないようだった。帰宅してから調べてみると、地元で教育・芸術関係の活動をしているNPOによって運営されているらしい。たしかに店番の人もボランティアっぽいし、閲覧専用の非売品が並んでいたり。アート作品が壁にいっぱいかかっている中で、腰を据えて本を熟読している人や、棚の前であーだこーだおしゃべりする若者など、けっこう賑わっている。変わった本をディグる目的では少々食い足りない店かもしれないけど、コミュニティの結節点としては面白そうな取り組みだ。

f:id:spimnida:20191214161434j:plain

小学校の図書室みたいな雰囲気

 

 一通りあたりを散歩して帰ろうと思ったら、もう1軒コミックの店があったので覗いてみた。基本的にはアメコミとそれにまつわる雑貨、アパレルの店なんだけど、日本の漫画もそれなりに食い込んでいる。AKIRAドラゴンボールは別格の陳列をされているし、その他最近流行ったもの、往年の名作も店の一角に集められていた。

 アメコミの教養は無に等しいのであまり物欲が刺激されなかったけど、好きな人にはたまらない店だと思う。内装が非常に洗練されているなあと思ったら、もう25年も地元密着で続いているビジネスなのだった。ロサンゼルスのダウンタウンにも支店があるそうなので、今度近くを通ったら寄ってみたい。

f:id:spimnida:20191214164542j:plain

スタイリッシュ×オタク

 

  あとは、大きめのレコード屋があったのがポイント高い(写真撮らなかったけど味のある倉庫風の店舗)。今日び中古CDをまとめて物色できる店は非常に貴重になっているので、つい衝動に任せてあれこれ買ってしまった。映画「ジョーカー」で使われた曲とか、秋にフェスで知ったバンドのアルバムとか、私の一年を振り返るようなものをピックアップしつつ、豊富に並んでいるライブ盤もいくつか適当に。しばらくドライブが楽しくなりそう。

 

 たまたま用事のついでに寄ったクレアモントは素敵な町だった。高等教育機関、映画館、美術館などなど揃っており、ぜんぶ歩いて回れるのが良い。ずっと住めるかというとちょっと刺激に欠けるかもしれないけど、期間を決めて学生やるには最高の場所ではないかという印象。

 

(今回お邪魔した店)
The Claremont Forum

586 W 1st St., Claremont, CA 91711

 

A Shop Called Quest Claremont
101 N Indian Hill Blvd., Claremont, CA 91711

 

Rhino Records

235 Yale Ave, Claremont, CA 91711

 

連休の読書

 風邪でダウンしてる間に2週間経ってしまったが、11月の終わりは感謝祭だった。日本にいると全然ピンと来なかったけど、感謝祭というのは要するにお盆とか正月とかそういう、家族の集まる連休である。この行事の起源を振り返ると、先住民にとっては虐殺と収奪の歴史の象徴と見なされてもいたりして複雑なのだが、とにかく毎年ものすごい渋滞とセールが繰り広げられる。

 独居者にはあまり関係がないので、いつも持て余す。旅行に行こうにもピーク価格で不経済だ。1年目は砂漠で過ごし、2年目はよせばいいのに大セールで浮かれるアウトレットモールに突撃した。3年目となる今年はもうめんどくさいから、ひたすら家にこもって本でも読もうかなと思っていた。そしたら風邪ひいた。

 だいいち家にこもって本でも読もうかなという考えが甘かった。家にこもると案外本って読まないもんである。ごろごろしながら本をめくっていると、すぐ眠くなってしまう。はっと目が覚めたら日が暮れていて、夜は眠れないまま無駄にゲームをしてしまい、生活時間が狂って、そりゃ病気にもなろうというものである。本当はせめて明るい時間にカフェにでも出かけて、背筋を伸ばしておかなければいけなかった。(連休で休みのカフェも多く、始末に悪い)

 というわけで、意気込んでいたほど読めなかったけど、宇田智子『本屋になりたい―この島の本を売る』はとても面白かった。本屋を始めようと思ってから実際に起業して、店主として日常を回す、一連の流れをこんなに平易に気負わず書いた本があるだろうか。いや、あるのかもしれないけど私は知らない。著者は「先のことはわかりません」と書いているが、ぜひ私が沖縄に行くときまで続けてほしい。沖縄のことは学生時代に半可に(本当に半可に)勉強したせいで、どうもその後足が遠ざかっているんだけど、この本のおかげでまた島々に気持ちが向いてきた。全国最小と称される「市場の古本屋ウララ」さん、帰国したら行ってみたい本屋のひとつ。

 『本屋になりたい』は著者がファンだという高野文子が挿絵を寄せている。主張の少ない線画が非常に素敵だ。これを良いきっかけにして、積ん読にしておいた高野文子の『ドミトリーともきんす』を続けて読んだ。「朝永振一郎牧野富太郎中谷宇吉郎湯川秀樹という日本の科学者たちが学生として住んでいる寮」を舞台にした短編漫画なのだが、ちょっとものすごかった。それぞれの科学者の著作を引用しながら、独自のキャラクターとして再構築し、理学のエッセンスをかわいく洒脱な絵とストーリーで説明しながら、親子の狂言回しを介して起承転結をつける。各編5ページで。どうやったらできるのか、薄っぺらい造本の中で時空がねじれてるのじゃないかと錯覚する作品だ。

 どこにも行かずに体調も崩したけど、『本屋になりたい』と『ドミトリーともきんす』でたしかな収穫を得た先月の連休だった。

 

f:id:spimnida:20191211175642j:image

風邪で受診 in LA

 この何日か風邪をひいていた。最近冷え込んだのに薄着でヘラヘラしていたせいである。症状は大したことなかったけど、咳が止まらなかったり、鼻粘膜が痛いほど炎症を起こしていたりで、ブログを書く気にならなかった。世の中には体調が悪かろうが仕事が立て込んでいようが毎日のように何か書いている人たちがいるけど、あれは本当にすごい。「続ける」ということはそれだけで一つの特異能力だ。そんな当たり前のことを、布団の中であらためて考えた。年の瀬で少し更新頻度が落ちるかもしれないけれども、なるべくこつこつと書きものを続けていきたい。

 風邪をひいて、病院に行った。寝てれば済むような風邪だったのだけど、喉風邪から咳喘息(何週間も空咳が止まらなくなる)に発展した経験が何度かあるので、怖かったのだ。

 ロサンゼルスは日本語でかかれる病院がいくつもあるのでそのうちの一つへ。パパッと診察、患者の経験則もちゃんと聞いてくれて話が早い。咳止めとステロイドの吸入薬をもらう。「咳止めのコデインは最近置いてないところが多いので、XX薬局に行くといいですよ」と言われて、おお中島らもの書いてた通りだと内心で変な感動。コデインは日本でもよく粉薬で処方される咳止めの薬剤だけど、シロップをひと瓶イッキ飲みすると幻覚が見えるらしい。バッドトリップして危ないので日本でもあまり売らなくなって入手に苦労したと書いてあった。乱用が警戒されてるのはアメリカでも一緒か。

 勝手に少しうきうきしながら医者が教えてくれた薬局に行ったら、普通にシロップ瓶、手に入った。なんだか妙な気分になったけど、家に帰ってひとさじ服用すると、ものすごい不味い。なぜかどピンクに着色してあるし。幼少時に飲まされた記憶が蘇る。とてもじゃないがこんなもんごくごく飲めない。らもの兄貴のジャンキー魂おそるべし。

 医療費のことを書いとくと、今回は診察と薬代で260ドル。日本的に3割負担だと仮定すると自分で払うことになるのは8500円くらい?

 ともかく、もらった薬と睡眠でちょっとずつ治し、5,6日でようやく体調が戻ってきた。健康って楽しい〜と噛み締め中。飯うまい、頭スッキリ。

【観た】ジョーカー

 先週「ジョーカー」観た。圧倒されてしまった。勢いで翌日もう一回観に行った。二日続けて同じ映画を観るなんて初めて。

 一回目はとにかく没入した。というか取り込まれた。家に帰る車の中で「ジョーカー笑い」している自分に気づいて怖くなったくらい、人格が半分くらい侵食されていた。

 他の人が言い尽くしているけれどもまずホアキン・フェニックスの怪演がとんでもない。「かわいそうなプアホワイト」を演じているという評価があるみたいだけど、これ、ぜんぜんかわいそうなだけのキャラクターではない。かわいそうに見えて狂った空洞、という困難な役柄を成立させきっていてすごい。セリフがすごいとか踊りがすごいとか、そういう個別の要素が立っているのではなく、統合された一つの人格が現出してしまっている。ほか、助演の俳優陣、あるいは音楽、撮影、編集なども全て隙なくびしっと決まっていて気持ちがいい。

 冒頭、どでかい黄色のフォントでタイトルが出る。その瞬間「美しい!」と思ってしまって、その後はラストまでジェットコースター。めくるめく映画的快楽の中をなすすべなく引きずり回されて終わり。

 な、なんだったんだこれは・・・?と家でネットのネタバレレビューを片っ端から読んだ。すると、この映画にはぜんぜん気づいてなかった複雑な仕掛けが施されていたようだった。作品のメタ構造を明示する、ある重要なシーンをベタに見逃していたことも判明。これはもうちょっと落ち着いて検証しなければならんと思って、次の日すぐ映画館を再訪した。

 二回目は心の準備ができていたので、最初のように引きずり込まれずに、ある程度距離を保って楽しむことができた。しかし、離れてみるとこの映画の底意地の悪さというか、巧妙さというか、仕込まれた「毒」がよく分かる。すごい映画なんだけど、人に勧めるには危険すぎる。

 世の中で賛否両論なのも納得だ。ジョーカーという過去作で絶対悪として描かれたキャラクターに感情移入を促すかのような作りになっているため、ジョーカー側に引き込まれそうになる。しかし、二回観てみると、最初自分が感じたジョーカーへの共感というのは、擬似的なものだったんじゃないかという思いが強くなった。社会の底辺ですり潰されながらジョーカーになっていく男を描いた映画なのだが、「ひどい目にあわされたから、キレてジョーカーになった」という因果関係は考えれば考えるほど分からなくなるのだ。なんでジョーカーが生まれたかを描いた映画だと思ったのに、なんでジョーカーが生まれたのか、その答えがどんどん遠ざかっていくような感覚に陥るのだ。

 共感の橋渡しをするような素振りをしながら、実はその橋の先には空虚だけが広がっている。一筋縄ではいかない映画だと思う。称賛も批判もどこまで空転させていくような厄介な空虚さだ。ある映画評で「全ての要素がパフォーマンスに過ぎず、実質は空虚だ」と批判的に書いているものがあった。私は逆に、その空虚さを空虚なまま提示しているところがこの映画の凄味だと思う。好き嫌いは別として、このシニシズムド級のエンタテインメントの中で見せているというところに参った。

 優れて「ひとこと言いたくなる映画」なので色々な人が色々なことを言っているが、総じてこの映画のことをきちんと批判するのは大変だな・・・という感じ。唯一ああたしかにそれは良くないねと納得したのは、ある印象的なシーンで使われている楽曲が、児童買春で有名な歌手によるものであること。この曲がまた死ぬほどキマっているので困ってしまうのだが。

 うっかりするとまた観に行ってしまうかもしれん。

 

 

 以下、面白かった評論を二つほど貼っておく。(観る前に読んではいけません)

 

 

virtualgorillaplus.com

 

realsound.jp