カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス生活の日記だったけど、今は大阪にいます。

2018年に読んだもの振り返り②『日本語が亡びるとき』

  今年読んだものセレクション第二弾は、水村美苗日本語が亡びるとき』。ここ数年ちょこちょこかじってきた文化論の中でも、いちばん心揺さぶられた。感情を動かされたのは小説家としての著者の腕によるかもしれないが、別にセンチメンタルな叙述に終始するわけではなく、本を貫く論理立てはあくまで学者のそれである。

 古来、文明の周縁国において「知」へのアクセスを望む人間は、必然的に二重言語使用者にならなければならなかったという指摘がスリリングだ。人々は母語とは別に、ラテン語や漢語を身に着けなければ、それら文明語の「図書館」に独占された普遍知へはたどりけなかったのである。そこには文化相対主義以前の、言語と言語の上下関係が厳然としていた。

 生活言語である母語がそのまま「国語」を意味し、その自国語で学問ができ、詩や小説が書けて読める、そんなことは上述の人類史的な観点から見れば大変特異な事態で、二十世紀の国民国家がもたらした偶然の果実に過ぎないと著者は言う。そしてその偶然の果実は、明治以来「いかに書くか」について真剣に格闘してきた人々の努力の上に花開いたのが、日本近代文学だったと。

 現在(この本が最初に出版されたのは2008年)、英語という覇権語のもとに知の一元化が急速に進んでいるが、これは国民国家と国語の特殊な蜜月関係が終わりつつあることと表裏一体の現象であり、英語の読み書きができないと全人類的な「知の図書館」にアクセスできないということは、むしろ数千年来の知のあり方に沿っているとも言える。

 こうした流れの中で、英語教育の必要性が叫ばれるが、グローバルな「知の図書館」に出入りするために本当に必要な水準の読み書き能力はなまなかなことでは身につかない。平等主義で全国民同じように英語が話せるようになることを目的にしていては、真の二重言語使用者は育たないというのが著者の悲観だ。二重言語を十全に使いこなす人間は、一部のエリート教育に任せて、一般の公教育としてはやはりまず国語教育を充実させて、二十世紀の奇跡のような日本文学の達成を引き継がねばならないという、ほとんど絶望しながらの唯一の希望を示して本書は終わっている。

 出版された当初、梅田望夫がこの本のことを「日本人ならみな読むべき」と評したらしいが、もしかしたらそれも言い過ぎではないかもしれないというくらい、これからの日本をどうしていくのかという問題と、日本語をどうしていくのかという問題は密接に絡みついているのだ。そんなことを教えてくれる本だ。

 「書き言葉」と「話し言葉」はぜんぜん違うという指摘、すなわち、世界知へのアクセスの観点から英語の読み書きが必要なときに、おしゃべりの練習をしていてもしょうがない、というような話もめちゃくちゃ刺激的なのだが、これについて書くとまた長くなるのと、ちゃんと説明する自信がないのとで、興味があればぜひ自分で読んでいただきたい。なお、「増補」された部分がとても面白いので、これから読む方は「増補」版を入手することを強く勧めたい。

 

たぶん続く。

2018年に読んだもの振り返り①『アメリカ自然思想の源流』

 今年はあまり本を読まなかったが、いくつか印象に残っているものはある。

 まず柴崎文一『アメリカ自然思想の源流』。一時期は毎週のようにアメリカの自然に遊んでいた私にとって、そうそうまさに今それが知りたいのだというタイトルである。米国立公園の仕組みに日々感心して、アメリカが自然保護の一大拠点だということはなんとなく知っていても、考え方の底に何があるのかは全く不勉強だったので、興味深く読んだ。

 米国自然思想の萌芽として、最初に19世紀の鳥類学者・画家のオーデュボンの活動が取り上げられる。続けて思想家としてのエマーソンと、エマーソンの影響を受けながらも、より自然そのものへ関心を向けたソローが対比される。そしてソローが記述した、人里近い自然としての「フロントカントリー」に対し、自然保護の父として知られるミューアヨセミテやアラスカという人跡未踏の地から掘り出してきた「バックカントリー」の思想が追加されていく。

 オーデュボン→エマーソン→ソロー→ミューアという流れが、門外漢にも非常にわかりやすい。アメリカ人と自然との関係について興味を持っている人への入門書としてとても良い。じっさい私は渡米前に岩波文庫のソロー『森の生活』くらい読んでおこうと思って(文章が長くてくどいので)いっぺん挫折しているのだが、この本を読んだ後、ミューアのエッセイを手にとったら英語なのにも関わらずけっこうスラスラ頭に入ってきた。

 たしか御茶ノ水を散歩しているときに明治大学の購買でテキトーに買ってきたのだが(著者は明治大の先生)、赴任地への知的水先案内としてとてもありがたい本になった。

 

つづく。(たぶん)

アニメ版バナナ・フィッシュをアメリカで観る

 最近の楽しみはアマゾンプライムでやっている「BANANA FISH」のアニメである。週に1話ずつアップされるのを、シャツにアイロンをかけながら観ている。とても原作を大切にしたつくりで、内容はだいたい覚えているのにハラハラドキドキさせられる。何よりアッシュやショーター、シンが喋って動いているだけで、おおおと力が入る。

 ストーリーはきちっと原作を追っている中で、面白い挑戦として、時代設定が変更されている。原作ではベトナム戦争の影を引きずる80年代半ばのアメリカが舞台だったが、今回のアニメではそれが現代に変わっている。吉田秋生画業40周年の記念でアニメ化したということだが、漫画からアニメにする過程で40年の時間的跳躍を試みたわけである。

 80年代の空気をまとったキャラクターたちが、スマホやパソコンを使いこなしているのには違和感があるが、新しいファンを獲得するためにはやむを得ない措置だったのだろうと思う。ちょっとググったら古参のファンの方々からは総スカン食らっている様子だけど、私はそこまで熱心な読者ではないので、改変されている部分については許容範囲である。

 原作に背いているか否かとは別の視点で、リアリティを欠いていると思うのは、ぜんぜんヒスパニックが出てこないことだ。連載開始時にすでにアメリカのヒスパニック人口は急成長中だったが、2018年現在は絶対数としても人口比率としても、数倍に膨れ上がっている。この作品の軸は白人・黒人・中国系の3つのエスニックグループなのだが、きっと今ゼロから同じ物語を描くとすれば、メキシコ系のギャングを登場させずには話が成立しないと思う。

 主人公たちが東海岸のニューヨークから「バナナ・フィッシュ」なる謎を追って、はるか西のロサンゼルスにやってくるところが中盤のハイライトだが、そのロサンゼルスの人口の約半分はヒスパニックなのだ。そしてアメリカにおいて家庭内で中国語を話す人達が1%に満たないのに比べ、家庭内でスペイン語を話す人口は13%もあるのだ(2015年センサス)。もちろん中華系の財力・政治力はすごいので物語の核として決して弱くはないのだが、アニメ化で40年の時間をすっ飛ばしたことにより、こうした社会変動についていけてない面が生まれてしまったことは否めない。

 だからアニメがつまらないということでなく、ただバナナ・フィッシュが80年代のアメリカを色濃く反映した作品だった分、時代の改変によりアメリカそのものの変化が浮き彫りになっているのが面白い。

 アニメはもうロサンゼルスの出番は終わってしまって少し寂しいのだが、いよいよ物語は佳境に入っている。結末まで、アイロンがけのお供に観続けたいと思う。

【読んだ】向田邦子『思い出トランプ』

 向田邦子の短編集を読んだ。表題の通り、トランプと同じ13編が収録されている。

 向田邦子の作品を読むのは初めてだ。登場人物は皆ぬぐえない過去の暗い思い出や、後ろめたさを引きずりながら、どうにか生きている。あまり大きな事件は起きず、なんとなく昔あんなことがあったなあなどと思い起こしながら、中年の冴えない日常を過ごす。そういう寂しさや、あるいは強かさが、たしかに描かれていて、深い。

 私にとって向田邦子を褒める人といえば、爆笑問題太田光で、いつかテレビでひどく熱く語っていたのが印象に残っているが、ようやく読んでみると、たしかにそれだけのものがある。

 解説で水上勉が、小説家志望の徒は、この本から2,3編書き写してみるがよかろうと言っているが、その通り、物書きの模範になりうる本だと思う。

 ブックオフでこんな本が気軽に買えるロサンゼルスの環境に感謝である。

 

思い出トランプ (新潮文庫)

思い出トランプ (新潮文庫)

 

 

日本の大学の留学生へのアフターケアについて

 少し前のこと。

 仕事が終わってオフィスを出ると、男性二人組がこっちを見ていた。「お前日本人か」と呼び止められる。なんだなんだと内心で警戒スイッチをオンにしながら、そうだけどと答えると「日本に郵便を送りたいんだが、どこで切手を買えるか知ってるか」などと聞いてくる。はあ?と思いながら、郵便局で国際郵便だって言えば普通に出せるんじゃないのと言うと「いやいや違うんだ、日本の切手が要るんだ」という。ますますわけが分からない。要領を得ないまま何回か聞き直してようやく理解できたのは次のようなストーリーだ。

 話しかけてきた二人組の片方は、最近まで九州のどこかの大学に留学していた。日本語はできない様子で、なんとなく工学系の研究者のような雰囲気だ。何の分野かはともかく無事に卒業(または修了)して、今はアメリカに戻っている。先日、何かの都合で留学に関する証明書が必要となり、その大学に発行を依頼した。すると、大学の事務担当者ははるばるアメリカから連絡してきているこの元留学生に対し、「切手を貼った返信用封筒を送れ」と指示したのだという。

 私はここまで聞いて、思わず「バカじゃないの!?」と叫んでしまった。大学が、という意味である。母国に帰った留学生がどうやって日本の切手を貼った返信用封筒を用意できるというのだろうか。一瞬、自分が知らないだけでアメリカでも日本の切手を買えるのではないかという可能性も考えたが、流通しているのは蒐集目的の古切手くらいであろう。お役所仕事にも程がある。証明書の発行などという単純かつ重要な事務すら国外対応できないなら、留学生の受け入れなんて最初からしなければいいのにとさえ思った。

 結局その場では返信用封筒の作り方が分からず、役に立てずにごめんと言って別れたのだが、帰って調べて見ると対処法がないわけではないようだ。たとえば国際郵便為替(International Postal Money Order)というものが少額の送金に使えるようで、これで証明書の発行手数料なり送料なりをアメリカから送ることができる。あるいはもっと現代的に、Paypalなど国をまたいだオンライン決済サービスを使うことも考えられる。なぜその九州の大学は、私がググって5分で見つけられたこのような方法を留学生に提示できなかったのだろうか。その硬直性に暗澹たる思いがする。

 私もお役所仕事には縁が深いので、そのアホな案内しかできなかった担当者個人を責める気にはなれない。規程と予算の制約、そして雇用の非正規化の中では、些細なことであっても、新しいことをするのは本当に難しいことである。しかし、こんな雑な対応ばかりでは、元留学生の愛校心も冷め、ひいては母国の優秀な後輩たちにもそっぽを向かれてしまうことだろう。多少通例から外れても、困っている元学生にはきちんとしたアフターサービス(せめて次善策をググるとかだけでも)が提供されるように、組織としての指針が必要だと思う。たかが証明書の発行という小さな業務だが、「私達は留学生を大切にしません」というメッセージを伝えるには充分だ。

 件の彼とは、数日後オフィスの近くでばったり再会した。ほうぼうツテを頼って、東京に知り合いが見つかったので、その人に返信用封筒の手配を頼んで事なきを得たそうである。

砂漠について

 ロサンゼルス近郊の野山で遊ぶようになって分かったのは、乾燥地には乾燥地なりの命の輝きがあるということだ。 

 日本語の世界では「緑が多い」というフレーズには自然が豊かだというニュアンスが付与されており、その対極に「死の砂漠」といった表現がある。こんもりと茂った原生林に価値がある一方、「砂漠」と聞くと環境破壊の結果に過ぎないというような負のイメージがあるのではないだろうか。私はそうだった。

 1年前、アメリカに来て最初にハイキングに行っが、そのときにはまだ目が慣れていなかった。砂っぽく日差しが照りつける中、カサカサとこびりついている植物たちが、どのような工夫で命をつないでいるのか、またそれにどんな生き物が頼って生きているのか、まったく分からなかった。乾いている、それしか分からなかった。

 でも、何度か山歩きを繰り返して地面を見つめるうちに、ただの白い砂地と思っていたところに非常に豊かで強い生態系があることが分かってきた。密度は低いが、昆虫も鳥も蛇もカエルもピューマも、干ばつや山火事や外来種や開発に耐えて、しぶとく暮らしている。仕事でアメリカのあちこち出張するようにもなって、カリフォルニアの自然のユニークさというのも少し分かるようになってきた。

 国内出張の後、飛行機でロサンゼルスに帰ってくるときはたいてい、北米で最も乾燥した地域であるモハーヴェ砂漠の上空を通る。赤茶けた大地に赤茶けた皺のような山脈が刻まれたその光景は「荒涼」としか言いようがないが、今の私はそんな場所でも目を凝らせば花が咲き、蝶が舞っているのを知っている。やれやれやっと砂だらけの街に帰ってこれたと、ほっとするのである。

 Twitterで生き物アカウントをフォローしていると、命が押しくら饅頭しているような日本の自然の様子がたくさん流れてきて、居ても立ってもいられない気持ちになるが、きっとここを離れたら離れたで、内部からギラギラ光を発しているような砂漠の生き物たちを懐かしく想うのだろう。滞在たった1年ばかりながら、私の一部はここに根を張りつつある。

 

f:id:spimnida:20180625031904j:plain

サボテンの花。2018年6月、Santa Rosa Plateau (CA)にて。

 

角煮

 大都会ロサンゼルスの片隅で、ときどき角煮を作る。私の住むコリアタウンは豚バラのブロックが安く手に入るのだ。多文化コミュニティ様様だ。自然から人間が得ているあらゆる恩恵をひっくるめて「生態系サービス」と言ったりするが、この豚肉も「文化の多様性サービス」である。

 レシピはウー・ウェンさんのもの*1を参考にしている。一口大に切ってから煮るのであまり時間がかからなくて助かる。香りづけの八角は「アニス」として米系スーパーで普通に売っている。和カラシもあちこちに売っているが、今は前任者の置いていったチューブをまだ使っている。賞味期限が2年前で風味もトンでいるが、山盛り絞れば多少は香る。

 できたてのホロホロのも無論旨いが、夜中に口淋しくて、固くなったものを冷蔵庫から直接つまむのも良い。噛んでいると味が出てきてカワキ物の趣がある。

 何より最近再認識しているのが、一緒に煮たネギやショウガのクタクタになったのが最高においしいということである。要するに佃煮なのだが、ラードがねっとりしみていてごはん力が非常に高い。軽く炒めて熱したのを冷たいうどんにぶっかけるなどするのも良い。佃煮業界は縮小傾向とも聞くが、脂ギトギト路線はあまり攻められてないのではなかろうか。「食べるラー油」のような新市場が眠っているかもしれない。

 

f:id:spimnida:20181124200911j:image

 

*1:ウー・ウェン、李映林『となりの国のスープとごはん』レタスクラブ(2007)中国・韓国のやさしい家庭の味が紹介されていて素晴らしい本です。