カリフォルニアの本と虫

ロサンゼルス生活の日記だったけど、今は大阪にいます。

【読んでる】町村敬志『越境者たちのロスアンジェルス』

 ちょっと仕事が忙しくなってきたら、また変な夢を見た。

 自分はなぜか大学院生だという設定。架空の学会に向けてよく分からない発表予定を入れられ、よく知らないパネルディスカッションの司会もやれと言われ、え〜どうしよう困った困ったと言って準備に手がつかないうちに当日になってしまい、すっぽかして逃げた。すぐ捕まって架空の先輩にめっちゃ怒られる。「いきなり穴埋めさせられて本当に大変だったのよ?」ってネチネチ詰めてくる架空の博士院生の先輩。誰か知らんがすいませんすいませんなんだこれ夢がない!!

 完全に仕事の比喩である。夢のすべての要素が直近のストレスにあからさまに結びついていて、なんのひねりもない。寝た気がしない。やれやれ。今度の週末はきっちり気分転換しないといけない。

 

 大学院生になった夢とは関係ないけど、いや関係あるか、町村敬志先生の『越境者たちのロスアンジェルス』という本を読み始めた。99年に出た本で、90年代前半にUCLAで客員研究員をされてたときの調査に基づいて書かれている。これがもう自分の経験に実に深く関わる内容で、うおおおセンセーっと心の中で叫びながらページをめくっている。

 私は3年前にこの街に来たとき、目に見える風景に強烈な違和感を覚えて、それをブログに記録したりもした。本の最初の方には、私より20年以上前にこの街に降り立った町村先生もまた、似たような違和感を覚えたことが書かれている。そこでもう共感の嵐なのだが、私と違うのはその違和感を分厚い学識でごりごり掘り下げていくところだ。

 あらゆる人々がそれぞれに「違和感」を体験すること。ちょっと逆説的ではあるが 、この「違和感」の存在こそが、この街の開放性の証となっていることに、やがて気がついた。

 ロスアンジェルスという都市がみせるもうひとつの顔、それはむしろ徹底した「冷たさ」という一面にある。この街で期待されているのは、必ずしも暖かな「共同体」ではない。また、すべてを許してくれるような濃密な人間関係でもない。それを言葉にするのは難しい。しかし強いていえば、「居場所」のなさを「居場所」にするという独特の感覚が、人々のあいだには漂う。(P.18)

 まださわりを読んだだけだが、ロサンゼルスで私が日々感じている底抜けの自由さと、それと裏腹な寂しさ、根無し草の感覚が、社会科学の対象として書かれていくことの快感がある。さらに、この街の一見どうしようもない薄っぺらさに隠された、歴史の蓄積についても、これまで見聞きしてきた断片的印象が数珠つなぎに関係づけられていくこと、読めば読むほどである。すぐれた著述は読者の「嗚呼私はこれを言いたかったのだ」という感覚を誘導する。

 また、私の個人的経験を脇に置いても、町村先生が「エスニシティの都市」ロサンゼルスを書いていくそのやり方はとてもエキサイティングだ。私もごく自然にロサンゼルスはたくさんのエスニシティが集まっている都市なのだと認識していたが、この本では「人々がロサンゼルスをエスニシティで語るように仕向けられていること」それ自体が分析の対象となっている(らしい、たぶん)。「人種」というイシューがこれ以上ないほど顕在化した今のアメリカで、ちょうど手に取れるようにこの本を部屋に積んでいた私は、とてもえらい。

 

 いろんな意味で過去からの贈り物な読書です。

 

 

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「同調圧力」とプライド

 「同調圧力」という言葉がよく分からない。成人してから初めて耳にするようになった。たぶん感じていなかったわけではないんだろうけど、学校という空間に充満するその嫌な感じをその言葉では呼んでいなかった。それに名前をつけるより先に、それを無視することを覚えてしまったので、大人が同調圧力なるものを気にしているというのは、正直よく分からない。よく分からないというのは、反語的にけなしているのではなく、文字通りそれがどういうことか理解できないという意味だ。私がその影響を受けていないということでもない。ともかく、苦しくなるまで圧力を我慢するほどの根気は、どこかに置いてきてしまった。

 だから、耐えねばならない何かとして、同調圧力の強さを論じるというのがよく分からない。畢竟、逃げるか戦うかじゃないのか。もちろんこれは私の生存バイアスであって、逃げることも戦うこともできない人にそんなことは言えない。

 ここ数年、同調圧力に関する悩みを相談されることがしばしば。私自身がそれに関して悩むことをやめてしまってもう長いこと経つので、あんまり共感できずに困っている。逃げるのと戦うのと、他に何か選択肢があるだろうか。聞くだけ聞いてガス抜きできればいいならそれでもいいんだけど。

 

 6月はプライド月間、ということでコロナに対応してYouTubeにプライド・コンサートがアップされていた。独立記念日の連休中、その1時間半のビデオを少しずつ見ていた。演者の私物として、モンスターボールの置物、ピカチュウのぬいぐるみ、キノピオのぬいぐるみ、と任天堂グッズが3回も出てきた。強し。

 フェス形式でたくさん人が出てくる中で、印象に残ったのは次の3つ。

 なんだかオーストラリアに呼ばれている気がするな。

 


PRIDE: INSIDE, A Virtual Pride Celebration

 

 

 あとプライド関連ではこの動画もよかった。シンディ・ローパーが、ミュージカル「キンキー・ブーツ」の世界中のキャストと大合唱するの。日本からはソニン三浦春馬が参加。シンディ・ローパーソニンも好きなので、わたしゃちょっと泣いた。

 'Let pride be your guide'って、お守りとして懐にいれておきたいフレーズだ。


Cyndi Lauper and Kinky Boots - Raise You Up - Happy Pride!

なんちゃって勉強のすゝめ

 3日ほど前から、日本の大学のオープンアクセスの講義動画をちょこちょこ見始めた。外出自粛に合わせてネットでまとめられていたものだ。

 まだどれがいいとか悪いとか比べるほどではないけど、北大のと東大のを2コマずつ見た。どっちも学際的なオムニバス講義で学部の入門的な科目。これが実に面白い。「大学の授業っちゅうのは、いい大人が受けたらたいてい面白いもんだ」とツイッターで言ってる人がいたけど、その通りだと思った。

 私は学生の時「遅刻してきて、寝る」という最悪の学生で、たぶん先生にとっては講義に来ない学生よりも目障りだったと思う。生活が不摂生だったのもあって、内容が面白いかどうかにかかわらず、全然起きてられなかった。あそこまでとにかく眠いというのは、今から思うとなんらかの精神的な逃避行動だったのではないかとも思う。

 iTunes Uという海外の大学の講義が無料で見られるサービスが始まったとき(2007年?)も、これはすごいと思ったけど、けっきょく眠気が抑えられず、すぐに見なくなった。その後教育業界ではMOOCという遠隔講義の仕組みが盛り上がったけれども、やはり一方通行の情報には身が入らずあまり注意を払ってこなかった。

 それが、30超えた今になってみると、俄然面白く感じる。たぶん大学の講義内容がいきなり面白くなったわけではなく、自分が変わったのだと思う。

 大学に通ってだらだら講義を受けていたときより、明らかに自分の知識欲が強くなっている。問題意識といってもいいかもしれない。世の中こういうとこおかしいんじゃねえかとか、自分はもうちょっとこういうことを知ってないとまずいんじゃねえかとか、そういう知識への関心が、あくまで前に比べればだが、はっきりしている。もちろん曲りなりに一度卒業して基礎を身に着けたことが前提としつつも、大学を離れて数年間でようやく大学で学ぶ姿勢がついてきたような感じだ。別に学生時代だって学びたいと思ってなかったわけでは全然ないけど、年の功というか、10年分引き出しが増えている。講師の言っていることに基づいて、連想を広げられるポイントも今のほうが多いのだ。残念ながら脳みその計算速度やスタミナは落ちてしまっているけど。

 おそらく30歳前後というのは学位を追加しに行くにはいい時期なのだと思う。同年代の友人もいま修士を取りに行っている人が多い。思い出してみると、私のいたゼミにもそのくらいの年齢の博士課程のお兄さんお姉さんが幾人もいて、社会経験に裏打ちされた見解をたくさん提供してくれていた。私は今のところ大学に戻りたい気はあんまりないけど、なにかの方法で腰を入れて学びなおしたいとは思う。まずは引き続きオープンアクセスの講義を見てみて、もっと勉強したい気が起きるかどうか、しばらく自分を観察してみたい。

 

 あと、自分の変化じゃなくて、以前の講義動画と比べて変わったなと思ったのは、再生速度を変える機能がついたこと。これものすごい大きくて、大学の先生ってたいてい間違いを避けるためもあって、ひとことひとこと噛みしめるように訥々と話すけど、それがめちゃくちゃ眠い。でも、今のオープンアクセスのサイトにはだいたい早回し機能が実装されているようで、1.4倍とか、場合によっては2倍の速さで聞くことができる。こうするとどんな朴訥な喋りも、半ばアジ演説のような熱気あふれるものになり、ぐっと引き込まれる。90分講義でずっと画面を見ているのはつらいけど、エキサイティングな早口の語りを1時間で見終えられるなら、炊事と食事、片付けを合わせたくらいの時間でひとコマ消化できる。(ながら視聴でこなせるのは入門講義だからだろう)

 ライフハックという言葉は嫌いだけど、これは自分にとってかなり画期的な技術だと思う。学生時代のあの講義もあの講義も、早回しボタンさえついていればもっと集中して聞けたのになと惜しい気がする。

【読んだ】『ルポ ニッポン絶望工場』

 出井康博『ルポ ニッポン絶望工場』を読んだ。本の背骨になっているのは、ベトナム人留学生の違法就労(違法雇用と言ったほうがいいか)の問題に対する、足で稼いだ丁寧な取材だ。送り出し現地のブローカーから、日本の官僚・政治家までつながったピンハネの仕組みを、豊富なインタビューで明らかにしている。また、他にも中国・ブラジルといった先駆けの出稼ぎ送り出し国や、フィリピン・インドネシアからの看護・介護士受け入れにも光を当てつつ、日本の無責任かつぼったくりな国ぐるみの外国人搾取を浮き彫りにする内容となっている。

 2016年刊。新在留資格「特定技能」を創設した入管法改正が2018年だから、その直前に書かれた本である。

取材を続けながら、私が強く実感することがある。それは就労先としての「日本」という国の魅力が、年を追うごとに低下しているという現実だ。(はじめに) 

  2020年にこれを読むと、実に正しい見解だと思う。しかし、これが書かれたころはテレビでも「ニッポンすごい」的な番組がヤケクソのように流行っていて、多くの人が「憧れられる日本」にすがっていたように思う。新書の読者には、かなり挑戦的に受け取られたのではないだろうか。

 去年読んだ望月優大さんの『ふたつの日本』とは、同じトピックを扱っていながら、好対照を描いている。『ふたつの日本』が日本の移民問題の全体像を整理するために、政策の経緯や、それを分析する枠組みまで提示したのに対して、『ニッポン絶望工場』はひたすら個々の取材エピソードを積み重ねて大きな事実を明らかにしていくスタイルだ。正直「外国人は日本にとって益か害か」という、著者の広義のナショナリズム的視点には同意できないものの、ひとつひとつのエピソードには他の者には書けない生々しさがある。そもそも『ふたつの日本』の参考文献からたどって読んだ本なので関連があるのは当たり前だけど、2冊合わせて読むと相乗効果で理解が深まると思う。

 『ふたつの日本』を読んだときには、こんな建前だけの制度設計のままさらなる実質移民受入に進むのか、という憤りと不安があったけれども、新型コロナのせいで「移民」を取り巻く環境というのはまた大きく変わってしまった。今、日本に入っている留学生や実習生はどういう境遇に立たされているのだろうか。何よりも、まさに自分が移民の一人として日米の入国管理政策に振り回され、国境や国籍といった概念にリアルな手触りを感じて日々生きている。私にとって、自分の国が外国人にどういう仕打ちをしているのかを知るということが、ますます重要になっている。

 

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フィールドノート(Mt. Williamson)

 3ヶ月ぶりに高い山に登った。エンジェルス国立森林公園のMt. Williamson。標高2,500mほど(足で登ったのは500mくらい)。

 あんまり気持ちがよくて胸がじんとした。

 下界は曇って涼しかったけど、山地を貫く州道2号線を上がっていくと、雲の上はむしろカンカン照りだ。歩くと汗が止まらず、2リットルのお茶をほとんど飲みきってしまった。

 3月、4月、5月というのは、南カリフォルニアの生き物たちが爆発的に成長する時期だ。厳しい乾季の前に子孫を残すため植物は一斉に花をつけるし、それに合わせて昆虫やそれを餌とする動物が全力の生存競争に火花を散らす。今年は例のウイルスのせいでその輝かしい季節を自室にこもって過ごす羽目になったので、今日山に入っても、季節を丸ごとスキップしてしまったような喪失感があった。私の大好きなセアノサスという灌木の花もだいぶ盛りを過ぎている。

 でも、気を取り直して歩いた。すでにカラカラに乾いた地面からは、しぶとく何種類もの野草が花をつけているし、あたりに充満した針葉樹の樹脂の匂いを吸い込むだけで頭がリフレッシュする。アメリカ西海岸特有の、スノープラントという毒々しい赤色をした寄生植物もひと株だけ確認できた。
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 歩き始めて、まず目を奪われたのはイワツバメの仲間だ。今日は暑くてハエやその他の羽虫がかなり発生していたのだが、それを狙ってイワツバメの群れが綺麗な軌道を描いていた。斜面を歩いていたので、上から見下ろすような形で眺めていたら、背中が緑に光って見えてドキッとした。背面は黒い鳥だという先入観があったのだが、たしかにハチドリにも似た鈍い構造色の反射があった。幸先のいいスタートだ。(帰って図鑑を調べたら、たしかに北米には緑や青の光沢を持ったツバメ類がいるらしい。見間違いではなかった)

 次にうおっと思ったのはガラガラヘビ。山道の真ん中に40〜50cmくらいの鎖模様がのびていた。ひと月前の記事にもガラガラヘビに会ったと書いたが、また遭遇してしまった。たぶん同じ種類だが、今日のほうが大柄で成体っぽい。私が歩いてくるのに道の真ん中から全然動かないので、へっぴり腰でスマホを向けて写真を撮る。舌がチロチロしてるので死んでるわけではないのだが、とにかく小石を放ったくらいではどいてくれない。仕方がなく少し道の脇の斜面を迂回して通り抜けた。いつかしっぽの「ガラガラ」の威嚇音を聞かせてもらいたいが、今日は特に長い棒も持ってなくて「安全に怒らせる」ことはできそうになかった。残念。

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 ハエも多いが、チョウも多かった。日本のとナミアゲハによく似たアゲハチョウが見事だったし、ひらひらと飛ぶおそらくカバマダラ擬態のマダラチョウ?も1頭だけ見た。数が多いのはタテハチョウ類で、たぶん4種類くらい目に入ってきた気がするけど全然区別がつかない。

 タテハチョウでまたひとつ面白かったことがある。特定のマツの木に沢山のタテハが集まっていたのだ。近くに寄るとパッと飛び立つが、またすぐに戻ってくる。よく見ると、明らかに口吻をのばして何かを吸っている。どうやら新しい葉が芽吹いているところに、何らかの樹液か何かが分泌されているらしい。ハエ・アブ・アリなども盛んに若い葉をなめているように見える。

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 マツの種名が分からないせいもあって、家で検索しても、針葉樹の樹液に虫が集まる現象のことは出てこない。カリフォルニアにはSugar Pineという、糖度の高い樹液を流すマツがあるらしいのだが、それだったのだろうか。勝手なイメージとして、針葉樹は揮発物質で虫を遠ざけてそうだし、粘度の高い松ヤニにふれることは小さな虫にとっては命取りだろうと思っていた。マツにあんなに昆虫が集まっているのを初めて見たので、とても意外だった。このマツと、チョウをはじめとする昆虫との関係について、ちゃんと研究されたものがあればぜひ読んでみたい。

 3時間ちょっとの短いハイクだったが、いろいろな生き物を見ることができて、とても楽しかった。暑くてたまらなかったが、ところどころにある風の通り道で涼みながら雲海を見下ろしていると、しみじみ天国だなあと思った。実際標高たかいし。

 あと、おまけで強いインパクトがあったこととして、クルマ乗って帰る途中でシカの轢死体を見てしまった。それほど形が崩れてなかったので、つい好奇心で車を止めてしげしげ観察してしまった。恐らく高速で腰に打撃を受けたと見えて、剥き出しになった腰骨が大きく損傷していた。日に照らされて乾燥しているとは言え、かなりの腐臭だった。大きな動物の死体を近くで見るというのは初めてで、少し動揺した。詳しくは描写しないけど、ウジも湧いていて、ちょっと長時間調べるのは無理だった。ふだん生き物好きとか言っておいて、すごすご逃げ出したのは情けない。本職の研究者はあんなの喜んで持って帰って、解剖したり骨格標本つくったりするんだからやっぱりすごい。

 

 まあ死体はともかく、いろいろと心揺さぶられることが多く、なかなか全て放り出して山に通えない社会状況である。でも、だからこそ、気負わずに、思い立ったらすぐザックをしょって出かけられるよう、心を整えていきたい。

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実現したいことについて

 ブログの管理画面から「下書き」のリストを見ると、書きかけの文章が5、6本並んでいる。書き出したはいいけど書き終えられず、ウェブ公開に至っていない文章だ。要するに、そこに埋まっているのは自分にとってきわめて重要なテーマばかりだ。

 しばしば自分の根っこの部分を、言葉で整理したい衝動にかられてタイプし始めるのだが、だいたい途中で気恥ずかしくなるか、なんだか本当でないことを書いている気がしてくるか、眠くなるか、してやめる。少し字にしたことによって、次の朝には少し衝動が弱まっているので、同じ勢いでは続きを書けない。そのままお蔵入り。

 去年の今頃に残した下書きをさらってみると、「人を人として見る」というフレーズが何回も出てくる。他者を安易なカテゴライズで矮小化せずに、一個の人間として認識できるようになるには、どんな条件が必要なのか。そんなことばっかり考えていたようだ。考えていたようだ、というか、子供のころから今までずっと考えている。

 出発点は、小さいときに、学校という均質を求められる空間で周囲から意に染まないレッテルを貼られていたことへの恨みかもしれない。自分でも自分がなんだか分からないから、自らいろんなレッテルを貼っては剥がして、あんまりパッとしなかった。これはまあ、普通の思春期だったということだろう。

 学齢が進むに従って、周囲からのレッテル貼りはマイルドなものになっていき、自分でもそれを気にしない太々しさを築いた。そのぶんだけ楽になった。

 一方で、大学に入ったころから、他人が他人に貼るレッテルに興味が向くようになった。その少し前から慰安婦問題の争点化や小林よしのりの台頭、小泉純一郎靖国公式参拝に代表される空気があり、学生時代は石原都知事の度重なる排外主義的発言や在特会の結成など、「嫌韓」の勃興期だった。10代だった私は「なんかヤなかんじ」と思った。やつらがそこまで悪く言う韓国の人にぜひとも直接会って、どんな人たちなのか確かめてやりたいと思った(北にアプローチしようという考えは浮かばなかったので自動的に韓国)。

 そんで、いろいろあって実際に韓国に友人をたくさん作ることができた。会ってみればなんということはない、「いろんな韓国人がいる」というだけであった。「いろんな日本人がいる」ということと全く同じである。気の合うやつと合わないやつがいるが、根っからの悪人はめったにいない。いないわけではない。当たり前。実に爽快。

 時を同じくして、またいろいろあって韓国人以外の外国人とも付き合いがやたら増えた。ステレオタイプの奥にある本当の複雑さにふれる楽しさ、その虜になってしまった。ステレオタイプを外して付き合うということは、相手も私を個人名で認識して無遠慮に突っ込んでくるということである。なんとスリリングでありがたいことか。

 「ある人がどういう人であるかはステレオタイプでは判断できない」というのは言ってしまえば普通のことで、何らユニークな見識ではない。でも、これを体験を通じて分かることができたのが、学生時代の財産だと思っている。

 何の話だったか。

 そう、「人を人として見る」ということの快感に自覚的になればなるほど、「人を人として見ない」が無視できなくなってきたのだ。そんで困ったことに「人を人として見ない」のは、世の中では普通のことなのだ。なぜなら、会う人会う人すべてに全存在をかけてぶつかっていったら疲れるからだ。そんな風に生きていたらすぐ死ぬ。ステレオタイプやカテゴライゼーションというのは、複雑な外界を分かりやすい単位に切り分けるために、ヒトが洗練した武器であり防具なのだ。捨てることはできない。

 私が今やっている仕事は、ものすごい広義にとらえると社会教育にかかわる側面を持っているので、毎日がステレオタイプとの戦いだ。抜いたそばから生えてくる雑草をひたすら退治し続けているような気分になることもある。だいたい自分の目や耳にだってもっさり生えているのである。抜いても抜いてもキリがない。

 でも、幸運なことに私、あらゆる労働の中で祖父母の畑で草取りをしているときがいちばん楽しいのだよな。もし稼げるのならプロの草むしり人になってもいいくらい。

 何の話だったか。

 少し話が変わるようだけど、私はいろんなものに対して執着心が薄いほうだと思う。広く何事にも興味を持つ質な一方、道をきわめたものはないし、今後も人生をかけて打ち込むものはなさそうだ。なんだか半端者だなあと思っていた。

 でもここ数年で、自分の曖昧模糊とした関心の焦点を「人を人として見る」に絞れるようになってきて、なんだか少しだけ人生に芯が通ったような気がしている。

 なぜあんなに異文化交流にはまったのか。なぜ一度は教職課程をとってみようと思ったのか(すぐ挫折した)。なぜ差別やパワハラやセクハラの問題にこんなに腹が立つのか。なぜ「好きなタイプ」の話題に乗れないのか。全部根っこは同じだったのだ。私は「人を人として見る」を実現したいのだ。仮に終わりのない草取り仕事であっても、死ぬまでそれをやっていたい。手段はなんでもいい。

 

 この考え、ずっと心の中に伏流していたものだったのだけど、こないだの年末に稲妻が光るように突然ひとつのフレーズとして結晶したものだ。遠くから訪ねてくれた一回り若い友人と、将来の話をしていたときのことだった。楽しく話をして別れ、その夜家でブログに書こうとしたんだけど、どきどきしすぎて最後まで書けなかった。今日はその下書きをせっかく思い出したので、それから半年分の考えも混ぜ込んで膨らませてみた。

 

おわり

【読んだ】司馬遼太郎『ニューヨーク散歩』

 「街道をゆく39 ニューヨーク散歩」を読んだ。

 BLMに関して脳みそに即時的な情報を取り込みすぎて、かなり疲れていた。アメリカについてもう少し落ち着いた言葉で書かれたものを読みたいと思った。ほんの気分転換のつもりで手にとったのに、一気に読んでしまった。

 司馬遼太郎が1992年にニューヨークを訪れたときの随筆だ。案内人の人柄や風景からニューヨークひいてはアメリカの歴史を語るのが前半。後半は友人ドナルド・キーンの人物評を主軸としながら、キーンの師でありコロンビア大学の日本学を築いた角田柳作のことや、キーンの弟子筋に当たるアメリカの日本研究者への印象を織り交ぜて、文学を通じたひとつの日米関係史が描かれる。

 キーンのことを空海にたとえたり、コロンビア大学のことを語るのにタウンゼント・ハリスとランダムハウス英語辞典の関係を引っ張ってきたり、さすがの縦横無尽ぶりだ。題名に反して、ニューヨーク自体のことを書いた文章は少ない。「街道をゆく」というシリーズはどの巻もそうかもしれないが。

 私の仕事のことは書かないようにしているので深く掘り下げないけれども、実際に会ったことのあるアメリカ人も文章の中にも幾人か出てくる。もれなく28年分若い姿でだ。めっぽう面白い。司馬遼太郎が知り合いの知り合いだったという新鮮な驚き。

 

 閑話休題。記憶が曖昧だがおそらくこの本を読むのは二度目だ。前は読み飛ばしていたこんな記述にちょっと引っかかりを感じた。ニューヨーク散歩を助けてくれた運転手の「マクドナルド氏」が考古学に熱中していることを聞いた、司馬の述懐。「マクドナルド氏」は生粋のニューヨーカーであり、黒人である。

この夢をきいて、私のアフリカ系アメリカ人への認識がかわった。黒人史以外のアメリカ史を“趣味”にするというのは、文明としての心の蒸留度がよほど高くなっているということなのである。(p.17)

 次いで史のその“趣味”に少し軽薄さを感じたというエピソードがあり、その後のこの文章。

だからといってマクドナルド氏の知性と教養が減点されてよいものではない。多くのアフロ・アメリカンにとって、かれらが服装に凝るように、氏にとっては、貝塚を“発見”したりすることが、ダンディズムのひとつかと思われるのである。(p.18)

  ここで大作家は「マクドナルド氏」の人物像を、自ら先入観として持っていた「アフリカ系らしさ」に比較しながら、評価を加えている。もちろん、人物の本質を特定の「時代精神」や「民族性」の典型としてつかむわざはこの作家の真骨頂であるし、この本ではユダヤ系もアイルランド系もドイツ系も、平等にそのわざによって鮮やかに描写されている。この本に出てくる全ての人物は、惜しみのない敬意をもって描き出されている。

 しかしなお、私はここで違和感を覚えざるを得ない。この国のポリティカル・コレクトネス文化に首まで浸かった今の私には、ほのかに表現された「上から目線」はあまりに明確だ。いや、大正生まれの司馬遼太郎がどれほどポリティカリー・コレクトであったかは、大した問題ではない。問題は、この上から目線を、当の私自身がたしかに引き継いでいるということである。これまでの人生で、決して多くはないがそれなりの数のアフリカ系の人と関わってきた。その過程で一度も「アフリカンにしては」という観点で人を見たことがない、と自信を持って言えるだろうか。とても言えない。違和感を覚えたのは、司馬遼太郎の書き方のせいではなく、内心の後ろめたさが呼び起こされたためであった。

 

 他、目を開かれる思いをしたのは、アイルランド系からアフリカ系への激しい排斥の歴史について書かれた箇所。もともと白人の中で最下級の地位に甘んじていたアイルランド系は、南北戦争終結後、解放された黒人に職を奪われる恐怖をひとつのきっかけとして凄惨なリンチに走ったという。

 元来、宗主国のイギリスに隷属させられ、一時は全島民が小作人にされた。

 かれらが大西洋をわたるとき、ブリテン島のリバプール港から出航した。リバプールは古くから奴隷売買で栄えていたから、そういう市を見たアイルランド人は黒人とみれば奴隷とおもいこんだかとおもわれる。

 やがてアイルランド人の多くは警察官になった。いまなおニューヨーク市警には多くのアイリッシュ系の警官がいて、まだ社会に参加しきっていないアフリカ系の犯罪者と追っかけっこを演じつづけている。(p.169)

 93年に書かれた文だが、今のアメリカのニュースを理解する上で 示唆に富む。

 また、この紀行文の最後には、92年の日本人留学生射殺事件が言及されている。ルイジアナ州に留学していた日本の高校生が、ハロウィンの夜に迷い込んだ民家の住人に拳銃で射殺された事件だ。刑事裁判は無罪となり、その後民事裁判で加害者の責任が認められた。遺族はアメリカに銃規制を求める署名を1年で百数十万筆集めている。本の結びをこの事件で締めているのも、現在の状況を見通した不思議な洞察に思えてならない。

 

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